地域 栃木 茨城 群馬
今年は季節が変わったのに、抜けるような秋晴れのすがすがしい陽気が少ないようです。 …何とか弛緩した体に生気を求めて勝手ながら気ままに近郊探索などを楽しんでおりました。 が、……世の常とは云え、嫌でも聞こえて来るのが社会の出来事です。沖縄の米軍ヘ…
日本歴史ページの一枚…平安時代「天慶の乱」を起こして坂東の新皇を称し、関八州を支配した平将門でしたが、武運拙く敢え無く戦死いたしますが、現在に至るまで関東各地に多くの史跡伝説が残されております。前回は将門に関る成田山新勝寺のお話でした。お不…
平将門から一寸目先を換えて、今回は過っての取手井野村小堀河岸に特化してみました。…関東地方の大河川は江戸以来人工的な改修が営々と続き既に自然の流路を保つ川筋は皆無と云えます。利根川東遷事業と呼ばれる江戸時代の可なり興味をそそる大事業が成就し…
長禅寺境内を辞し山門石段下公園の立札には幕末から昭和にかけて名を残した人達で取手に縁の文人などが記してあります。当地に寄留したり利根川や取手界隈に関る作品を残した人々です。小川芋銭、菊池幽芳、正岡子規、高村光太郎、平塚らいちょう、坂口安吾……
将門の郷とされる坂東市を前回探訪いたしました。将門が天慶3年(940)2月14日藤原秀郷と平貞盛連合軍を相手に合戦、流れ矢を額に受け戦死の地に在る国王神社(こくおう神社)とは…彼の三女、如蔵尼により創建され、将門を大明神として祀たものです。 Photo……
今回は平安中期とかなり古い話で遺構も大規模豪華のものではなく質素であり、大筋は伝説的な歴史探索と思われますので、ゆっくりとアプローチから入ります。…… …この時期、今年は比較的低温で好都合と意を決して、平将門の本拠地である岩井市を訪ねました。…
栃木県足利市は太平記の里、足利氏始祖の地として歴史遺構が大切に保存された文化観光都市として活況しております。 清和源氏の嫡流源義家(八幡太郎義家)は陸奥の安倍氏討伐以来東山道の要衝足利には縁がありましたが、彼の孫に当たる足利義康がこの地を荘…
武家の棟梁”源義家(八幡太郎義家)”と足利との係り、当時の世情は朝廷の権威が持続していた時代を前提に始めます。父親の源頼義が勅命による陸奥安倍氏の討伐戦に義家も参戦した「前九年の役」や「後三年の役」(永承6年、1051〜寛治1年、1087)の間にし…
上毛地域の太平記歴史遺構にかかわる街、太田市と足利市は南北朝にそれぞれ組して戦った新田義貞と足利尊氏の各始祖の地、新田荘と足利荘が存在した遺構が残されております。今回は新田荘、太田市を歩いてみた印象から話を始めます。 大光院本堂 街の中心市…
清和源氏の嫡流新田氏を祖と仰ぐ徳川家康公に関わる遺構が辺鄙な世良田に集約されております。中でも世良田東照宮の建物とは?…元和二年(1616)一月二十一日、駿河の田中に鷹狩りに出かけた家康は、その夜にわかに発病し、自ら死期の迫ったことを悟った…
前回の経過は…清和源氏の嫡流から新田氏、足利氏が成立して新田荘、足利荘に定着しそれぞれ新田、足利姓を名乗ります。今回の主題部分として…新田氏(義重)は更に嫡流と普系に分かれ、その一つが徳川(得川)郷の徳川姓を名乗る世良田義季こと徳川義季に辿り…
清和源氏を始祖とする足利氏と新田氏の出自の解明から太平記の武将として活躍した足利尊氏、新田義貞につらなる話を色々と拾い読みしてみましょう。 そもそも清和源氏とは56代清和天皇の子孫で最も栄えた河内源氏の八幡太郎義家こと源義家が武家の棟梁とな…
栃木市は蔵の街とも云われ巴波川(うずまがわ)舟運でお江戸や関東各地と物資交流で繋がり江戸時代屈指の商都で日光東照宮造営にも関連して、技能職人が多数定着していた文化都市でもありました。例幣使街道の道筋や江戸近代の蔵、木造洋館など多数の建築物…
寒さも遁れた陽春4月、新緑のお山から下界を一望しようと発念、馬齢を重ねた身体に鞭打って峻嶽踏破?…を心差し標高なんと341mのハイキングコース栃木の太平山を徘徊しました。 大平山信玄平の展望 6月になると賑う場所が、咲き乱れるアジサイ坂で山頂…
官営富岡製糸場は明治5年開業以来30年を経過後の明治35年に2代目所有者三井家から横浜屈指の生糸貿易商原富太郎(三渓)に三重製糸所、名古屋製糸所、大崎製糸所と共に譲渡されます。この取引で生糸に関しては三井は貿易に専念、原合名会社(原三渓)は大製…
今回は明治新政府により官営富岡製糸場が莫大な国費をかけて創られたのかを具体的に調べてみました。…唯一の外貨獲得で富国強兵国家建設を目的に高品質生糸生産の発想ですが、現実には維新後、日本生糸の品質低下でイギリス、フランスで悪評されていた事実が…
世界文化遺産へ群馬県の富岡製糸場の登録が必至とマスコミが賑っております。確か昭和30年代に自動車で峠越えする途中富岡製糸所正門前を通過赤レンガのクラシックな大工場が記憶に残っておりました。 片倉富岡製糸所はその後、昭和49年度が生産高では発足以…
東京近辺に在住の方々には北関東の足利市、大田市などはなぜか縁遠い場所と感じていませんか?、 お江戸は別として関八州で鎌倉にも匹敵する歴史の宝庫が、僅か80km圏にあるのです。 上)太鼓橋楼門 下)本堂と中御堂 足利市と云えば足利尊氏父祖の地で…
水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男一ツ橋公慶喜が天狗党追討軍総大将として…『流言、浮説にまどうことなく無二念(容赦なく)追討鏖殺(みなごろし)いたし候様』と下知して待ち構へております。そこへ神君と仰ぐ徳川斉昭位牌の神輿を伴ない慶喜公を一縷の燭光と…
私は一時那珂湊に寄留した事があり水戸の街にも立寄った記憶では千波湖や偕楽園周辺は風光明媚、文化財も魅力のある場所です。 天狗党事件を切っ掛けに幕末の水戸藩内が二分して血みどろの殺戮合戦に終始した事実に、なぜか?、口をつぐむ水戸の人が不思議に…
水戸天狗党事件の本因である水戸藩の尊皇攘夷を一寸覗いてみましょう。 二代藩主徳川光圀に始る尊王思想への傾注歴史観の史記編纂が藩の仕事として代々受継がれますが、江戸末期の9代藩主徳川斉昭の就任で尊王と過激な攘夷思想が水戸藩を席巻します。 即ち…
前回は浮浪凶徒尊攘派水戸天狗党追討に幕府は遠州相良藩主、幕府若年寄田沼玄蕃頭を追討軍総括に任じ幕府軍一万余で水戸天狗党追討隊を編成常陸に進出します。 一方、水戸藩主徳川慶篤に名代を任じられた支藩宍戸藩主松平頼徳の水戸城沈静隊「大発勢」…、と…
江戸の後期、豊な商人の街栃木宿を放火殺戮した水戸天狗党とは何者か、なぜ栃木宿を襲ったのか?、……あ〜じれってえ!、こちとら江戸っ子だい、栃木宿で何が起こったのか、ぽんぽんと、早いとこ喋りやがれ……とは言っても、物事には多少の筋道が必要で御座い…
初めに…今回は例幣使街道に係わる話から、前々回の護国寺の三条、岩倉に続いて、序でと云えば恐縮ですが徳川統治時代の形骸化した公家社会の実体の総括としてHP内の重複記事になりますが、整理してみました。悪しからず御願い致します。…… 栃木市例幣使街道…
二月に入り栃木市散策を思いつき、先ずは大神(おおみわ)神社、歌枕”室の八島”探訪でした。 奥の細道のプロローグを口ずさみ、取るもの手に付かず東武電車に乗りました。……芭蕉さんと曾良の江戸出立は新暦五月九日ですから真冬二月は早すぎた嫌いはあります…
栃木市は東京から東武電車で約1時間の場所にあります。…… 明治維新の廃藩置県後栃木県と宇都宮県が明治六年(1873)合併現在の栃木県になり、発足当初の県庁は栃木町でしたが明治17年に宇都宮町に移転、実行したのは維新の栃木県令三島通庸でした。 …
過ってジャパン アズ ナンバーワンと云ったアメリカのエコノミストが居りましたが、将に当時、ライジングサンがハイヌーンへ、…一転、昨今はサンセットの様相となり、技術、経済の凋落は日本国の転換点となりました。 見透かした様に?、近隣国からの領土侵…
徳川家康公の霊柩が久能山東照宮から日光山座禅院に安置までの行程をみますと、久能山から東海道二宮までは将軍引退後の居城駿府から江戸往還に使用した御成御殿、お茶屋御殿と小田原の城内に宿泊、二宮から北上し日光までの行程宿泊地の主要地点として天海…
先ず、二代将軍徳川秀忠により東照宮が日光に建立された経緯から、始めます。 <日光東照宮の謎 高藤晴俊 講談社現代新書より> ……元和二年(1616)一月二十一日、駿河の田中に鷹狩りに出かけた家康は、その夜にわかに発病し、同月二十五日駿府に帰城し…
既に足尾銅山は閉山されておりますが、過去を見渡しますと、この山の所有者は徳川幕府と古河鉱山会社の二つに大別されます。幕府の207年間に対し古河鉱山は96年と半分にも満たない年月だったのです。…… 明治21年足尾銅山坑内夫。古河市兵衛専属写真師…