[歴史][地域] 足利氏と新田氏(4)−6 家康公の置き土産 群馬県太田市の大光院

上毛地域の太平記歴史遺構にかかわる街、太田市足利市南北朝にそれぞれ組して戦った新田義貞足利尊氏の各始祖の地、新田荘と足利荘が存在した遺構が残されております。今回は新田荘、太田市を歩いてみた印象から話を始めます。

大光院本堂
街の中心市街地に富士重工業のスバル自動車製造工場が各所に分かれ存在しておりますが、京浜、京葉工業地帯の重化学工場地帯の環境雰囲気ではなく、それなりに調和している様にみえます。従業員の職住都市として人口は約22万人で県庁所在地は別として活況状態といえる筈ですが、先ず訪問者としての率直な印象は…ま、地方は何処も同じのシャッター通り現象、人影は薄く、やたら自動車は走り回り商店街は成立しておりません。どこぞにSCか大規模スーパーでも在るのでしょう。しかも市街のバス路線は一本もありません。スバル自動車の街とイメージされる太田市ですが、大正7年(1918)には海軍機関大尉出身の中島知久平氏大光院新田寺境内の一画を転用し、既に飛行機製造工場を創業しており、大工場「中島飛行機製作所」の技術設備を引き継いだスバルの社業の伸張が即ち太田市の発展に関った典型的な城下町の経緯があり、市民には自動車所有の気概を求められているのかも知れません?…… 

大光院庫裏
この新田荘太田市のお隣の足利市は足利荘として足利氏の遺構が残され、どうしても新田氏南朝、足利氏北朝に別れ争った如く太田市と足利氏は比較の好対照です。産業では飛行機製造対繊維産業銘仙の時代から、現代では自動車対観光の図式になっております。と云う展開から本題の歴史文化財に目を転じますと、両市を代表する歴史遺構の大寺院として太田市大光院新田寺対足利市鑁阿寺(ばんな寺)となります。追って両寺の話から結果は明快かとおもいますが、両市成立の違いが文化財維持の違いになったかも知れません。……
では、大光院新田寺…戦前、戦後にかけて関東一帯では子育て呑龍さまと有名なお寺さんです。このお寺は徳川家康大阪冬の陣の一年前慶長18年(1613)に徳川将軍家の祖と仰ぐ清和源氏後裔新田義重の追善を目的に創建したものでのです。開祖として徳川将軍家菩提寺増上寺から呑龍上人が迎えられます。本堂、方丈、庫裏などの裏山に新田義重の塋域もつくります。墓の所在さえ不確かな義重墓所を境内に創り上げたそうですから、推理すれば家康は征夷大将軍就任に相応しい清和源氏の子孫として既成事実積み上げが必要だったのかも。……

境内裏山 新田義重墓所境内を拝観いたしますと、祈祷法要などは壮大な開山堂で行われますが、昭和9年(1934)再建の鉄筋コンクリート造り文化遺産建造物としては本堂、方丈、庫裏が江戸初期の遺構とされ、時代の風格が感じられました。これだけの歴史遺構が、と…残念ながら国の文化財指定の建造物は境内に一件もない不思議があります。なぜか?…勝手に推測すれば…何時誰が実施したか不明ですが、維持補修の手抜きで勝手気ままな造作をし、創建時の文化財的根拠を消滅させてしまったのか?、真相は分かりませんが。また、はるばる来訪した拝観者も境内に錆びた鉄骨の見世物屋台が参道隈なく乱雑に放置され折角の境内伽藍の景観が損なわれて落胆いたします。製造業の街は「造ってナンボ」か、…古い歴史遺構などに関心のない気質なのかも?……
では気を取り直して開祖呑龍上人の子育て呑龍さまの謂れ、……家康公より寺領300石を拝領した大光院ですが、間引き、捨て子など子供の受難を憂いた呑龍上人は貧しき子供達を寺で養育しますが、幕府には趣旨が認められず、…それではと子供達を寺の弟子として入山させ育て上げた話があります。

境内裏山 呑龍上人墓所 
また元和二年(1617)親の病気を治そうと幕府法度を犯し鶴を殺した少年を匿い、咎人(科人)となり寺から出奔、隠棲しましたが、元和七年(1621)赦免を得て大光院住持に戻ります。元和9年(1623)8月9日65歳を一期に大光院で亡くなっております。……現代でも各地のお寺さんで「子育て呑龍さま」の信心が行われております。御生誕は埼玉県春日部市一ノ割(武蔵国埼玉郡一の割村)、もったいなくも私の住む埼玉のお方で、14歳のとき一の割に程近い古利根川畔の格式ある林西寺(現存)に入山し、のち住職になり更に増上寺へと高僧への道を歩んでおります。……大光院新田義重塋域の隣に呑龍上人墓所。林西寺の歴代住持墓所内に呑龍上人墓(供養墓)。
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《足利氏と新田氏》
(6)足利市鑁阿寺、足利学校
(5)足利荘の成立と武家嫡流
(4)家康公の置き土産 群馬県太田市の大光院
(3)世良田新田荘と初代日光東照宮社殿
(2)新田氏後裔徳川家康公の経緯
(1)新田荘(群馬県太田市)