[将軍家][地域]  足利氏と新田氏(3)−6 世良田新田荘と初代日光東照宮社殿

清和源氏嫡流新田氏を祖と仰ぐ徳川家康公に関わる遺構が辺鄙な世良田に集約されております。中でも世良田東照宮の建物とは?…元和二年(1616)一月二十一日、駿河の田中に鷹狩りに出かけた家康は、その夜にわかに発病し、自ら死期の迫ったことを悟った家康は枕元に南光坊天海、金地院崇伝、本多正純を召して遺言しております。金地院崇伝の日記(本地国師日記)には……御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候、云々……遺言の中に「死去一年後に日光山に小き堂をたて」とありますが、そのお堂こそ初代東照宮です。この暦史的メジャーな遺構が、現在の世良田東照宮として移築されております。

元和3年(1617)4月8日 家康公の霊柩は既に竣工なった東照宮奥の院の廟窟地下に埋葬し家康公神霊遷座の儀が行なわれた。
4月17日…二代将軍秀忠参加のもと小祥忌(一周忌)を執り行い東照大権現は遺言…下野の日光山に小堂を建て勧請せよ、神に祀られ関八州の鎮守にならん。と指示した如く鎮座いたしました。 
ご存知かと思いますが現在の日光東照宮は三代将軍徳川家光により再造営され、煌びやかな世界遺産となって日本の代表的観光地となっております。……日光東照宮御参拝の参考までに……奥の院家康公の宝塔の変遷…奥の院、埋葬場所の宝塔は当初は木造多宝塔といわれ、のち寛永十三年(1636)三代将軍家光の東照宮大造替では石造宝塔に改造しますが、天和三年(1683)の地震で倒壊しました。現在の奥の院”銅宝塔”は同年直ちに再建されたものです。……

では初代の日光東照宮が世良田東照宮として移築された経緯を調べてみます。……元和3年(1617年)家光により再造営された東照宮は暫く初代の本殿、拝殿、唐門が残されておりました。 また、家光はこの時期、徳川将軍家始祖とされる徳川(世良田)義季が創建した世良田長楽寺境内の義季墳墓の傍らに世良田東照宮の建立を考え天海僧正に命じております。一方、再造営された日光東照宮では初代からの上記建物は全体の調和、美的バランスの観点から再建立される事となります。天海大僧正は早速旧建物の世良田移築を計画し、移築なった本殿、拝殿、唐門などで寛永21年(1644)には世良田東照宮として華々しく創建の式が行われました。 現在この建物等はそれぞれ国指定重要文化財として保護されております。
群馬県太田市世良田と云いますと過疎地に間違いは無いのですが広大な徳川遺構として東照宮、徳川氏縁の長楽寺、徳川氏祖徳川義季累代の墳墓、太田市立新田荘歴史資料館、また近くには新田館跡の一角に総持寺新田義重の館跡とされとおります。一帯は太田市によって歴史公園とされ快適な歴史文化財の宝庫です。


長楽寺の概要…新田義重の子徳川(世良田)義季が創建した寺院、承久3年(1221)東国では最初の禅寺で500人を超える学僧が修業に励んだと言われますが、家康は関東入国後、将軍家祖先の寺と重視し干渉します、側近の天海僧正を住職に任じ、臨済宗の寺院を天台宗に改宗させ幕府が庇護して末寺700寺余の大寺院に成長させております。往事に比すべく物はありませんが現在は中世石塔群、江戸時代の建物として勅使門、三仏堂、太鼓門、開山堂などがあります。
総持寺真言宗の寺院で鎌倉時代に領家の新田館跡に建てられました。別名は「館の坊」とも云います。 館跡として中世の堀跡と掘立柱建物、井戸跡などがあります。では新田一族、誰の居館なのか?…諸説があり新田義重の居館跡が最有力で世良田頼氏居館説、新田義貞居館説などです。
 ……先へつづく…   ……前へ戻る

《足利氏と新田氏》
(6)足利市鑁阿寺、足利学校
(5)足利荘の成立と武家嫡流
(4)家康公の置き土産 群馬県太田市の大光院
(3)世良田新田荘と初代日光東照宮社殿
(2)新田氏後裔徳川家康公の経緯
(1)新田荘(群馬県太田市)