河川
豊臣秀吉旗下の石田三成の執拗な忍城水攻めでも不落の名城の主、成田長親も天正18年(1590年)4月に後北条氏小田原城落城と配下の総ての落城を知り、遂に天正18年7月説得に応じて石田氏に忍城を引渡し、ぞれぞれ馬などを曳き連れ成田長親と臣下は散って往…
荒川と綾瀬川は別の川ではありません、但し中世、近代初期のお話ですが、現代に至る大雑把なお話から初めます。………現代の綾瀬川の起点は元荒川が桶川市の首都圏中央道と交差する下流の桶川市小針領家付近ですが元荒川とは断絶しております。……が、中世期には…
前回の大戸地区大六天神社下流の末田須賀農業用取水堰は元荒川随一の規模の堰で、元荒川最下流の取水堰になります。左右両岸に展開する大穀倉地帯への必須の給水源といえます。又江戸時代には唯一の大量運搬手段として収穫産米を運び出す舟運の河岸が在った…
歩き回って疲労困憊、自然堤防に興味を持ったのが自縄自縛でした。でも……今回歩いた成果……発達した自然堤防上は村落、社寺、街道など人間社会の営みの場所に進化して…密接な繋がりが分かりました。 さて、古隅田川左岸(現在と流れは逆)自然堤防追跡は岩槻…
元荒川追跡で思わぬ寄り道、全く素通り出来ない場所が春日部、岩槻を流れた古隅田川の流域です。古代、中世の大河のメカニズムの遺構、自然堤防が大規模に残された貴重な地域である事が歩行追跡で実感いたしました。photo…古隅田川の江戸時代石橋 また、発達…
河川の歴史調べ、いつも錯誤するのは近代的河川管理下の大河のイメージです、今回の元荒川追跡でも現代感覚が混在する戸惑いです、ま…自身の高齢者弊害か?…… 例えば荒川ですが、源流地から流域、流路、河口と一本の川として認識して、広大な河川敷、堅固な…
今回は中世期の利根川(隅田川)の流路跡と云われる「古隅田川」と呼ばれる川が細々と流れる埼玉県岩槻と春日部の間を解明する事にいたします。……先ず往時の利根川(現、古利根川)は春日部で分流し岩槻の荒川へと流下しており、これを隅田川(現、古隅田川…
岩槻市の元荒川の物語は意外に拡大、しばらく話が輻輳する事になると思います。……前回の続きから…横U字状の旧河道の残滓の話ですが、反芻して頂くと県道R65(お成り街道)の人間総合科学大学岩槻キャンパス(元荒川旧河川敷内)の処に田中橋が架かっていた…
荒川と云うだけでも、寛永6年(1629)の熊谷久下村の瀬替え以前と現代と取り違える事がありますが、ここではその又昔の本流元荒川の事になります。 前回のポイント鴻巣市川面の武蔵水路との交差地点から更に下る事にいたしましょう。毎回の事ですがG00gle ma…
前回までは有名な荒川締め切り地点熊谷久下村附近を歩きましたが、今回からは締め切られた旧荒川本流跡を流れる元荒川の追跡です。 早速、現在の元荒川の源流とされ、既に探索した熊谷市役所ムサシトミヨ保護センターの養護池の湧水の流れる綺麗な小川の流れ…
奥秩父の甲武信ヶ岳を源に秩父盆地をへて長瀞などを流れ下り関東平野に達し東京湾に流出する延長173kmの荒川は江戸時代初期熊谷久下村附近で締め切り、瀬替へ(西遷事業)した経過が前回でした。……今回この事業の重要な地域熊谷について探索してみます。 …
陽春の輝きが戻ってまいりました。……使い古した身体のせいか、とにかく今年の冬の寒さには泣かされ、文明病か? 寒冷うつ病…寒いと眠くなり、ヤル気が出ない。…と云う事でブログも約1ケ月休業しました。…早い話、そう云うのが認知症かもと、精神科を受診し…
前回で古利根川流路解明はどうやら隅田川を経て東京湾に流入いたしましたが、残された大きな課題が存在いたします。 近年世界規模での異常気象が各地で発生しており、地球温暖化の弊害が危惧されております。私達の日本国でも福島原発事故を切っ掛けとしてCO…
前回で埼玉県羽生市上川俣の昔の利根川本流と云われた廃川跡(会の川)の追跡古利根川へ更に中川、遂にはほぼ痕跡が消滅した古隅田川をへて、現在の隅田川へ、…即ち、昔は利根川、荒川、入間川が流れ込んだ隅田川は可なり流水量の多い大河であった事がわかり…
大正時代以前の中川とは古利根川の下流部分の呼称、…迄が前回の話でしたが、今日はその先、知る人ぞ知る…古隅田川?とは、今回も古利根川いわゆる中世期の利根川本流跡…の追跡になります。…古利根川下流(中川)は元荒川や綾瀬川を呑み、更に南下します。今…
前回は首都外郭放水路へ寄り道しましたが、この設備の最南端の越流堰のある春日部市の古利根川から更に下流へ追跡です。…… 古利根川松伏溜堰既にお気付きの事と思いますが、中世よりの河川名の探求は基準など全く無く、土地土地で勝手に呼んでいました。昔の…
今回は流路探索の視点を一旦変えて古利根川、元荒川、中川流域地帯の重大な問題点を探って見ようと思います。………日本一の関東平野の北部山岳を水源とする大河川利根川はその昔、現在の荒川と江戸川に囲まれた御盆の様な低地帯に流れ込み自由気ままに、水路は…
前回から引き続きまして……とにかく煩雑なのは河川の名前です。加須市街からの会の川が東北自動車道加須インターチェンジ先で北側用水路と合流し、その流路は加須市川口に達しております。この北側用水路とは葛西用水路とも云われ江戸時代の万治3年(1660)…
前回の探索は加須市内の会の川を地図上で遡行し”会の川”流頭の利根川締め切り地点の様子を観察いたしましたが、今回は羽生、加須市に残る中世期の利根川本流とされる会の川の堆積物の自然堤防、砂丘など内陸では珍しい形成経過など調べてみます。 但し、イメ…
度々の事ですが、ま、急がずにゆっくりと始めます。……今回の近世初期の利根川本流の古利根川水系の探索ですが、当時の利根川流路の概要を知る事は必須と考えられますので、その件からです。………photo-現代利根川の会の川締切り地点風景 日本国屈指の大河、坂…
中世末期豊臣秀吉の小田原北条氏征伐の報償として天正18年(1590)に徳川家康公は江戸移封を賜り坂東の経営を始めました。直後の文禄3年(1594)忍城主松平忠吉(家康の四男)が領地の行田市界隈の治水洪水対策を目的に中世の利根川本流と云われた会の川を川…
話は”ついで”と今回もお江戸を支えた物流利根川舟運の終末期の状況を、毎度大雑把ながら調べてみました。明治の初期、利根川の主役高瀬船に併せて外輪蒸気船が導入され東京を基点に関東各地に航路を開設して交通物流路を構築しておりました。可なり高度なシ…
平将門から一寸目先を換えて、今回は過っての取手井野村小堀河岸に特化してみました。…関東地方の大河川は江戸以来人工的な改修が営々と続き既に自然の流路を保つ川筋は皆無と云えます。利根川東遷事業と呼ばれる江戸時代の可なり興味をそそる大事業が成就し…
梅雨とは云え連日の天候不順は私には欝の季節かも知れません。 加えて総理大臣安倍晋三の”天に唾する”ような憲法認識で世情を騒がせ、更に、この欠陥宰相が何かに取り付かれたのか、舞い上がって居る姿には恐怖感を覚えるのです。…日本国の歴史は 政治家の後…
戦前の事、子供の頃3,4年東京の下町に住んでおりましたが夏になると必ず洪水に見舞われており、大水(おおみず)と呼び特別な事ではありませんでした。 敗戦後の昭和20年代でも夏場しばしば洲崎の先は大水が出て永代通りは見渡す限りの”さざ波”の水面だ…
先ず、江戸時代から現代にいたる利根川の話から始めます。…… 昔から”水を治める者、国を治める”と云われましたが、小田原北条氏戦の恩賞として秀吉から関八州に移封を賜った徳川家康は遂に江戸幕府を開きます。この俗に徳川300年(277)の治水工事によ…
旧浦安町の住民にとっては「青べか物語」は余り歓迎すべき小説ではなかった様子です。 私も今更読み返して、土地の人達は浦安の悪口を書いた小説と考えたのか?、また、飾らない女性描写も御婦人には不満が在ったのかも知れません。…往時、森繁さん主演の映…
昭和35年(1960)文藝春秋に山本周五郎さんの「青べか物語」が連載され、漁師町浦安のしたたかな生き様、人情、叙情に私はなぜか魅了され、以来浦安は身近な懐旧の場所となっておりました。 周五郎さんが蒸気河岸の先生と呼ばれ住付いのは大正15年〜…
今回は運河のお話です。…早速ですが、運河と言はれると何方様もそれぞれのイメージがお在りとおもいます。 私などはパナマ運河、スエズ運河を先ず考え、東京近辺では京浜運河でしょう。 しかし運河と称しても道路橋が架かり本船はおろか、せいぜいボートか艀…
由緒のある神社やお寺などそれぞれ伝説がありまして、境内には立派な石碑など用意して、その有難いお話を残しております。 お寺さんの最大公約数的な伝説は「夢枕のお告げ」でしょう。 寺の御住持の見た夢が…大体は地蔵様や菩薩など仏様が夢枕にお立ちになり…