[河川][歴史] 昔の荒川探索行(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態

元荒川追跡で思わぬ寄り道、全く素通り出来ない場所が春日部、岩槻を流れた古隅田川の流域です。古代、中世の大河のメカニズムの遺構、自然堤防が大規模に残された貴重な地域である事が歩行追跡で実感いたしました。photo…古隅田川の江戸時代石橋 


また、発達拡大した自然堤防地帯は、やがて道となり、旅人の歩く街道となり、人が住み付き村落が発達して、文化が芽生えて行く過程のモデルが、この地帯に存在しており、自然堤防上の古代奥州街道跡を東国の覇者,源氏勢や足利、新田氏の武士団が行き来したのでしょうか!…更に弁慶の水鏡伝説の池なども存在します。
では、……前回の続き…左岸自然堤防の徹底探索が主旨になりますが、隔絶された時間、中世の残した自然遺構と人々の営みが何処まで見えて来るのでしょうか、今回の出発地点は東武野田線豊春駅の北の住宅地にある春日部市立豊春中学校附近です、その辺り春日部市南中曽根で古利根川流路(現代と流れは逆と仮定)は旧古利根川と分流しておりますが、左流旧古隅田川流路方向へ進みます。話の進捗は……恒例のGoogle mapの航空写真がツールです、参照をよろしく……




photo…岩槻南平野調整池と自然堤防…この附近も住宅地を縫って古隅田川公園としての自然堤防上を歩きます、途中に江戸時代、元文2年(1737)の石橋が移築保存されておりますが橋の長さから、既に古隅田川の川幅は現代と全く同じ程度に衰退していた事が分かりました。……航空写真で俯瞰すれば自然堤防の森は東武野田線際まで続いており、線路を渡った密集市街区域では壊滅しますが、目安を旧古隅田川に切換えて追跡しますと国道16号線手前で南下し国道に平行する状態で進みますが、暫くすると突然、川(人工の溝)に沿って自然堤防の森が出現いたします、俗に大光寺堤と呼ばれる昔が濃厚な自然堤防とコンクリートに固められ僅かな水が滞留する機能を失った川は、現代とのコントラストが強烈、附近には新築住宅も侵出しております。
埼玉県はこの低湿地帯の住宅地化を見越してか、インフラ整備を手掛けており、地域の排水対策として自然堤防とセットで巨大な調整池を掘削、岩槻南平野公園とし整備しております。………この南平野調整池は20m以上掘り下げた巨大なものですが容量を確保し、池底に水を保留して池としたものです。そのメカニズムは、ポンプで池を常時空にし、降雨浸水時の流入容量を確保しているのです。……では異常降雨出水で満水になったら?…強制排水先は?……その後の事は私如きには無理な探索でした。
戻ります、大光寺堤は更に南下し国道16号を横断し古刹大光寺境内を囲むように南下します、お寺の南には昔の河川の名残が大小二つの池として残り小さな方が弁慶の水鏡伝説の池です。今迄一環して追跡して来た古隅田川左岸自然堤防は目前の元荒川と古隅田川合流で終了と為るのでしょうか?………



photo…大光寺門前と弁慶伝説の池あ〜疲れた、不謹慎にもウイスキーを呑みながらここ迄辿り着きましたが、実はまだ核心が残されております、……再確認です、関八州の大河利根川と荒川がこの地岩槻で合流したのです、利根川の瀬替え(東遷)以前は荒川は利根川の支流ですから往時の荒川はここ迄(岩槻)、下流利根川下流の名称隅田川となります。 即ち利根川が春日部で隅田川(古隅田川)と呼ばれ岩槻に流れた由縁からです……と、云う事で…現在の元荒川をイメージしては中世期解明は苦しくなります。
……田舎芝居の赤城山…そこで、忠治は考えた!…組んだその手で膝を打ち、そうだ、……この二大河川利根川、荒川の合流域には広大な河川敷が存在した筈だと……その実態の解明は次回の自然堤防絶対追跡で明らかに出来ると思います。
……先程の古隅田川左岸自然堤防は大光寺境内から南下し県道80号(岩槻、野田線)附近に達し既に消滅しておりますが、”すっとこ、どっこい”……まだまだ辿る事が出来るのです、核心は残されています。……次回へつづく
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《昔の荒川探索行》
(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市
(10)元荒川由縁の街 越谷市
(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」
(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態
(7)大地に刻まれた古隅田川自然堤防を歩く
(6)荒川を支流にした古隅田川(隅田川)
(5)岩槻市元荒川と謎の古隅田川
(4)元荒川が大河の残滓を残す流域
(3)元荒川を下る
(2)荒川西遷(瀬替へ)の要 熊谷市
(1)人工河川荒川の成立(西遷事業)