[河川][地域][歴史] 利根川の東遷事業(2)−4 江戸幕府 利根川銚子放流の経過

戦前の事、子供の頃3,4年東京の下町に住んでおりましたが夏になると必ず洪水に見舞われており、大水(おおみず)と呼び特別な事ではありませんでした。
敗戦後の昭和20年代でも夏場しばしば洲崎の先は大水が出て永代通りは見渡す限りの”さざ波”の水面だった事を思い出します。 また今を時めくTVタワー、スカイツリーの在る業平橋界隈で昭和初め頃の大水のお話……”喰うや喰わず”の頃の古今亭志ん生さんが業平橋に貸家を建てた大家さんに、ここでも人が住める見本としてタダで入居を頼まれた、その家の実態「なめくじ長屋」…
志ん生一代 下巻 結城昌治 朝日新聞社から…
……そのうち夏がきた。といってもまだ初夏だが、思いがけない苦難があらわれた。蚊がすごいのである。蚊などどこにでもでる。…
…ところが業平の蚊は並大抵でなかった。湿地で蚊が出やすいということもあるが、まわりが空き家で甚五楼の家だけポツンと明かりがついているから、集中的に押しかけてくるのだ。それも色の黒い元気そうな奴ばかりで、うっかり欠伸をすると十匹くらい口の中へ吸い込んでしまう。暗くなったら蚊帳にもぐっている以外にない。  それからなめくじがまたすごかった。普通は五、六センチで大きいほうだが、業平のなめくじは十センチ以上はざらだった。やはり湿地のせいでなめくじにとって天国なのである。そいつが夜になると何百匹も集まってきて、塩などかけてもビクともしない。そして気味のわるい声でピシッピシッと啼く。……夜があけて見ると部屋じゅうなめくじの這いまわった跡が銀色にひかっていて、さながら銀閣寺の長屋版である。  そのうえ蚤や蝿が多いし、油虫や鼠も昼間から走りまわっていた。……

更に…業平橋は本所、深川のゼロメートル地帯のど真ん中ですから、夏場の大水はあたり前、屋根上に逃げて炊事をしたり、何とか”しのいだ”話もあります。…ま、ここ50年程は近代的な治水行政のお蔭で東京の大水は忘れ去られておりますが、温暖化現象異常気象の今後は?………


     

赤線は江戸時代以前の利根川本流  青線は現在の利根川本流の骨格

では本題に入ります……まず、家康公の江戸入府以前の利根川流路から…、昔は川の名前は上流、中流下流などその土地土地で名称が異なり一筋の川としての認識が無かった訳ですが、当時の利根川流路を辿りましょう。…埼玉県行田市利根大堰(武蔵大橋)下流に上川俣があります、其の附近から”会の川”(現、廃川)の流路が鷺宮町北の川口で現在の古利根川に合流しておりました。 この古利根川幸手、杉戸、春日部、松伏、吉川で現在の中川流路に入り元荒川を合流し南下、足立区中川1丁目と葛飾区亀有3丁目の足立、葛飾の区境界線(古隅田川流路跡)を西へ(中川は南下)くねくねした境界線が古隅田川の痕跡です。 綾瀬、小菅、千住、を経て鐘ケ淵附近で隅田川に合流江戸湾に注ぎました。以上の流れが当時の利根川本流とされております。 但し分流も多く渡良瀬川流路にも合流し権現堂川、庄内古川、太日川(現江戸川)から江戸湾のコースにも流れ込んでおります。 正確にはこの流れは当時の渡良瀬川本流川筋にあたります。 現在の利根川、荒川、江戸川の如く名称が簡素化されず一筋の川としては曖昧だったと云えます。 
江戸時代初期の主要河川図に当時の利根川本流と現代の利根川流路をプロットいたしますので比較して下さい。(赤線は徳川時代以前の利根川筋、青線は徳川幕府が改修し銚子放流の利根川筋です。)
俗に利根川東遷工事、銚子放流までの時系列での目まぐるしい河川流の瀬替え、廃川、締切り、開削などは次回になります。……
春日部市古利根川畔を散歩し表示などから、利根川東遷過程で利根川流入が締め切られた古利根川の現在は「悪水大落し古利根川」と称して各地の農業灌漑排水を集める河川機能とされておりました。 ……先へつづく…  ……前へ戻る

利根川の東遷事業》(4) 江戸川、利根川 お江戸の遺産
(3) 締め切り、廃川、開削、瀬替えで銚子へ
(2) 江戸幕府 利根川銚子放流の経過
(1) 人工河川利根川と堤防と決壊