埼玉県行田市(2)忍藩と利根川東遷事業

豊臣秀吉旗下の石田三成の執拗な忍城水攻めでも不落の名城の主、成田長親も天正18年(1590年)4月に後北条氏小田原城落城と配下の総ての落城を知り、遂に天正18年7月説得に応じて石田氏に忍城を引渡し、ぞれぞれ馬などを曳き連れ成田長親と臣下は散って往きました。
一方、徳川家康はその功を認められ、豊臣秀吉から後北条氏の旧支配地の関東を賜り、小田原落城から僅か4ヶ月後、忍城落城から1ヶ月後の天正18年(1590年)8月江戸に入府しております。………
さて、その後の忍城は?……早速徳川家康は江戸防備を固める北の護りとする忍城には子息、四男松平忠吉を十万石で入城させ、以来徳川将軍家の譜代親藩が忍藩主を勤めております。……しかし俗に徳川300年と云う時代の忍藩に係わる主な話は徳川家康の江戸入府から慶長8年(1603)徳川幕府成立の13年間の 過渡期に集中しているようです。………初代忍藩主の松平忠吉は11歳の若年なので城預かり役として松平家忠を一万石で入れますが、忠吉の成人により松平家忠は下野小見川藩に封じられ、家忠の由縁、家老の小笠原吉次が忍藩を切り盛りいたします。この敏腕小笠原吉次の手を得て湿地水郷の行田一帯の治水を計画実行いたしました。…忍藩による羽生市上川俣の昭和橋下流 会の川(利根川)締め切り地点


……現在の埼玉県羽生市上川俣で、往時の利根川は分流して南流を会の川、東流は浅間川と呼び、会の川(古利根川)が利根川本流とされておりました。……果敢にも家老小笠原吉次は疲弊し河床の上がった会の川(古利根川)を堰き止め忍城行田一帯の水害除去を画策し初代伊奈忠冶の助力を得て施工したと云われております。本流を堰き止めて利根川を派川の東流(浅間川)に流し込みましたが、……一般的に利根川東遷の始りが、忍藩の行った「会の川締め切り」と喧伝されております。
ここで行田忍城の話を渡りに舟として利根川東遷事業の実態解明を考えました。既に判明している会の川締め切りは単なるローカルな忍藩の事情にすぎません。利根川東遷事業に結びつけるのは結果論、 利根川東遷事業などとは近代化後の学者先生の造語でしょう。……そもそも徳川幕府に巨大プロジェクトの存在など無く伊奈一族による関東大湿地帯の治水事業の積み重ねが利根川の銚子放流、即ち東遷が具現化したと考えられます。但し、承応3年(1654)利根川栗橋と境、間の掘削水路赤堀川完成で銚子への通水は明らかに東遷事業と云える筈です。しかし、真実の利根川東遷事業の始りはこの時点から更に権現堂川締め切り廃川の昭和3年(1928年)からと考えられます。

………が、幕府は赤堀川通水後も、往時の利根川本流は…渡良瀬川流路を利用した権現堂川、庄内古川、太日川(江戸川)から東京湾への水路です、幕府文書には上記現在の江戸川水路を相変わらず利根川とか新利根川と記しておりました。
一端の理由として、江戸時代後期の千葉県関宿附近で二分されていた利根川東京湾への流路(旧時代の利根川)が銚子放流に比べ流路距離半分以下と高きより低きへと地形からも河川の合理的メカニズムは江戸川筋(旧利根川)にあったのでしょう。……常陸川軽由の銚子流路は利根川による江戸洪水治水目的の利根川過剰水の放流目的だったが、千葉県関宿で利根川は銚子流路と東京湾流路に二分流の結果……即ち物理的には銚子と江戸を結ぶ一本の水路が完成、この時点で江戸幕府は物流手段として利根川水系の舟運運航を重視し整備を始めます。……以後、利根川筋の河川管理は舟運主体の低水工事で船舶の喫水確保、河岸(川湊)構築を重視し、河川の直線化や堤防構築を忌避し水害が多発しております。明治近代化以後の鉄道発展で利根川管理は舟運から治水優先となり河川工事も高水工事に変更し現在の近代河川が徐々に完成されました。……
と、云う事で利根川東遷事業と云うだけでも、その発端から完結まで人それぞれの意見がありますが、戦後、昭和22年(1947)カスリン台風による利根川新川筋の大決壊後、現在に至るまでにほぼ完璧に整備され、平成に至る時代に完遂されたと云えるのかも知れません。
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