地域 埼玉

 埼玉県行田市(6)旅 足袋話し

テレビドラマ陸王最終回、楽しませて頂きました。……古くは歴史遺構、近代では日本一足袋の街で有名な?、我が埼玉県の行田市ですが、昨今は何処にでもある田舎の過疎地で街中の道、路地から軽やら自動車が出てくるばかり、人影はまばらです。……その街でドラ…

 埼玉県行田市(5) 足袋の行田か、行田の足袋か!

行田市の話で足袋が抜けては仕方が無いので、今回は足袋に拘わります。…… 戦中派の私でも足袋を履いたのは子供の頃の記憶程度、能書きなど無理な話で、勝手なしゃべくりになります。 現代のお方にしても足袋とは和装の一部程度の認識かと思います。……そこで…

埼玉県行田市(4)埼玉県名発祥地行田、忍の地名由来

先日、ドラマ「陸王」に触発されまして、以前から”たび、足袋”立ち寄った行田市を再訪しました。……古代文化の遺構「さきたま古墳群」など往古の文化中心地域を形成した行田市ですが、江戸時代から始った足袋製造の地場産業は大正、昭和前期がピークとなり、以…

埼玉県行田市(3)久能山から日光へ家康公霊柩遷座と行田

本題の前に、毎週ドラマ「陸王」を楽しんでいるてまえ、足袋に係わる思い出を手繰ってみました。………昭和も十年代、東京のちょっとした商店街には必ず足袋屋さんが商いをしており、子供心の記憶に残る店内はカラフルな子供用別珍の足袋やら、白足袋、黒足袋な…

埼玉県行田市(2)忍藩と利根川東遷事業

豊臣秀吉旗下の石田三成の執拗な忍城水攻めでも不落の名城の主、成田長親も天正18年(1590年)4月に後北条氏小田原城落城と配下の総ての落城を知り、遂に天正18年7月説得に応じて石田氏に忍城を引渡し、ぞれぞれ馬などを曳き連れ成田長親と臣下は散って往…

埼玉県行田市(1) 私の中の行田

……寄る年波でしょうか、一寸、ふわーとしていたら、ブランクが出来てしまい早速ブログに懸ります。……今人気のテレビドラマの「陸王」の舞台が、昔云われた足袋の街「行田」でした。 この街と私の接点は田山花袋の小説”田舎教師”愛読に始まり、ブログのテーマ…

戦前日本が見えてくる(5)高麗神社と高麗聖天院

前回の埼玉古墳群をたずね出土品なども見学した暇人の私は俄然古代史に興味がわいてまいりました。………なにぶん戦時小学生時代の神話を歴史に組み込んだ歪曲国史教育をされた被害者でしたから。 律令(701年)により国、郡制度の発足で武蔵国さき玉郡が出来た…

 戦前日本がみえる(4) 朝鮮半島からの人材流入

ちょっと涼しい日を利用して埼玉県の行田市にある「さきたま古墳群」を徘徊してまいりました。公園化され整備され環境で、古代文化遺産の巨大古墳群には改めて驚かされました。……「県立さきたま史跡の博物館」には発掘副葬品からも高度な文化を携えた渡来人…

昔の荒川探索行(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市

荒川と綾瀬川は別の川ではありません、但し中世、近代初期のお話ですが、現代に至る大雑把なお話から初めます。………現代の綾瀬川の起点は元荒川が桶川市の首都圏中央道と交差する下流の桶川市小針領家付近ですが元荒川とは断絶しております。……が、中世期には…

昔の荒川探索行(10)元荒川由縁の街 越谷市

前回の大戸地区大六天神社下流の末田須賀農業用取水堰は元荒川随一の規模の堰で、元荒川最下流の取水堰になります。左右両岸に展開する大穀倉地帯への必須の給水源といえます。又江戸時代には唯一の大量運搬手段として収穫産米を運び出す舟運の河岸が在った…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」

歩き回って疲労困憊、自然堤防に興味を持ったのが自縄自縛でした。でも……今回歩いた成果……発達した自然堤防上は村落、社寺、街道など人間社会の営みの場所に進化して…密接な繋がりが分かりました。 さて、古隅田川左岸(現在と流れは逆)自然堤防追跡は岩槻…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態

元荒川追跡で思わぬ寄り道、全く素通り出来ない場所が春日部、岩槻を流れた古隅田川の流域です。古代、中世の大河のメカニズムの遺構、自然堤防が大規模に残された貴重な地域である事が歩行追跡で実感いたしました。photo…古隅田川の江戸時代石橋 また、発達…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(7)大地に刻まれた古隅田川自然堤防を歩く…

河川の歴史調べ、いつも錯誤するのは近代的河川管理下の大河のイメージです、今回の元荒川追跡でも現代感覚が混在する戸惑いです、ま…自身の高齢者弊害か?…… 例えば荒川ですが、源流地から流域、流路、河口と一本の川として認識して、広大な河川敷、堅固な…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(6)荒川を支流にした埼玉県「古隅田川」の解明

今回は中世期の利根川(隅田川)の流路跡と云われる「古隅田川」と呼ばれる川が細々と流れる埼玉県岩槻と春日部の間を解明する事にいたします。……先ず往時の利根川(現、古利根川)は春日部で分流し岩槻の荒川へと流下しており、これを隅田川(現、古隅田川…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(5)岩槻市元荒川と謎の古隅田川とは

岩槻市の元荒川の物語は意外に拡大、しばらく話が輻輳する事になると思います。……前回の続きから…横U字状の旧河道の残滓の話ですが、反芻して頂くと県道R65(お成り街道)の人間総合科学大学岩槻キャンパス(元荒川旧河川敷内)の処に田中橋が架かっていた…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(4)元荒川が大河の残滓を残す流域へ

荒川と云うだけでも、寛永6年(1629)の熊谷久下村の瀬替え以前と現代と取り違える事がありますが、ここではその又昔の本流元荒川の事になります。 前回のポイント鴻巣市川面の武蔵水路との交差地点から更に下る事にいたしましょう。毎回の事ですがG00gle ma…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(3) 元荒川を下る

前回までは有名な荒川締め切り地点熊谷久下村附近を歩きましたが、今回からは締め切られた旧荒川本流跡を流れる元荒川の追跡です。 早速、現在の元荒川の源流とされ、既に探索した熊谷市役所ムサシトミヨ保護センターの養護池の湧水の流れる綺麗な小川の流れ…

[河川][歴史] 昔の荒川探索行(2)荒川西遷(瀬替え)の要 熊谷市

奥秩父の甲武信ヶ岳を源に秩父盆地をへて長瀞などを流れ下り関東平野に達し東京湾に流出する延長173kmの荒川は江戸時代初期熊谷久下村附近で締め切り、瀬替へ(西遷事業)した経過が前回でした。……今回この事業の重要な地域熊谷について探索してみます。 …

[歴史][河川] 昔の荒川探索行(1)人工河川荒川の成立(荒川西遷事業) 

陽春の輝きが戻ってまいりました。……使い古した身体のせいか、とにかく今年の冬の寒さには泣かされ、文明病か? 寒冷うつ病…寒いと眠くなり、ヤル気が出ない。…と云う事でブログも約1ケ月休業しました。…早い話、そう云うのが認知症かもと、精神科を受診し…

[河川][事件事故] 古利根川の追跡(9)−9 利根川決壊 昭和22年カスリーン台風大洪水

前回で古利根川流路解明はどうやら隅田川を経て東京湾に流入いたしましたが、残された大きな課題が存在いたします。 近年世界規模での異常気象が各地で発生しており、地球温暖化の弊害が危惧されております。私達の日本国でも福島原発事故を切っ掛けとしてCO…

[河川][歴史] 古利根川の追跡(6)−8 中川合流から古隅田川へ

前回は首都外郭放水路へ寄り道しましたが、この設備の最南端の越流堰のある春日部市の古利根川から更に下流へ追跡です。…… 古利根川松伏溜堰既にお気付きの事と思いますが、中世よりの河川名の探求は基準など全く無く、土地土地で勝手に呼んでいました。昔の…

[河川][歴史] 古利根川の追跡(5)−8 大洪水デルタ地帯の先端技術「首都外郭放水路」

今回は流路探索の視点を一旦変えて古利根川、元荒川、中川流域地帯の重大な問題点を探って見ようと思います。………日本一の関東平野の北部山岳を水源とする大河川利根川はその昔、現在の荒川と江戸川に囲まれた御盆の様な低地帯に流れ込み自由気ままに、水路は…

[河川][歴史] 古利根川の追跡(4)−8 旧利根川跡を流れる葛西、北側用水路の実態

前回から引き続きまして……とにかく煩雑なのは河川の名前です。加須市街からの会の川が東北自動車道加須インターチェンジ先で北側用水路と合流し、その流路は加須市川口に達しております。この北側用水路とは葛西用水路とも云われ江戸時代の万治3年(1660)…

[河川][歴史] 帰らざる河 古利根川の流路の追跡(3)−8 羽生、加須市 会の川は悪水落し

前回の探索は加須市内の会の川を地図上で遡行し”会の川”流頭の利根川締め切り地点の様子を観察いたしましたが、今回は羽生、加須市に残る中世期の利根川本流とされる会の川の堆積物の自然堤防、砂丘など内陸では珍しい形成経過など調べてみます。 但し、イメ…

[河川][歴史] 《帰らざる河》 古利根川の流路追跡(2)−8 近世初期の会の川    

度々の事ですが、ま、急がずにゆっくりと始めます。……今回の近世初期の利根川本流の古利根川水系の探索ですが、当時の利根川流路の概要を知る事は必須と考えられますので、その件からです。………photo-現代利根川の会の川締切り地点風景 日本国屈指の大河、坂…

[河川][歴史] 《帰らざる河》 古利根川の流路追跡(1)−8 利根本流会の川締切り以前の利根川

中世末期豊臣秀吉の小田原北条氏征伐の報償として天正18年(1590)に徳川家康公は江戸移封を賜り坂東の経営を始めました。直後の文禄3年(1594)忍城主松平忠吉(家康の四男)が領地の行田市界隈の治水洪水対策を目的に中世の利根川本流と云われた会の川を川…

[地域][歴史] 草加、越ケ谷千住の先よ(2)−2 近藤勇と越谷宿

どうにか気温も安定し、よい季節になって来ましたが今年は天候不順が堪えました。……さて、越ケ谷とは云わずと知れた埼玉県ですが、以前には「ださい玉」などと呼ぶ”不逞の輩”(ふていのやから)が沢山おりましたが、埼玉県こそは江戸五街道のうち、中山道、…

[地域][産業] 草加、越ケ谷千住の先よ(1)−2 …草加と皮革産業

”草加、越谷千住の先よ”…昔から日光街道の宿場の位置を指した軽口ですが、元を正せば草加、越谷のロケーションに疎い人が多かったと云う事か、現在は如何でしょうか?…埼玉県民の私はよ〜く存知ております。切り札は、この方のお力を頂ければ…松尾芭蕉さん「…

[歴史][地域]  糞尿譚(2)−6 西武鉄道、東武鉄道の屎尿輸送 -2016 08 14更新-

お江戸の頃は商品とし取引された糞尿ですが、御一新後の東京は近代的大都会を指向する様になりますと、インフラとしての下水道不備が顕著になり、近代化過程で大きなトラブルとなっています。 明治期の東京でも西洋式のビル建設が始まりますが早速糞尿譚が語…

[河川][地域][歴史] 利根川の東遷事業(3)−4 締め切り、廃川、開削、瀬替えで銚子へ

梅雨とは云え連日の天候不順は私には欝の季節かも知れません。 加えて総理大臣安倍晋三の”天に唾する”ような憲法認識で世情を騒がせ、更に、この欠陥宰相が何かに取り付かれたのか、舞い上がって居る姿には恐怖感を覚えるのです。…日本国の歴史は 政治家の後…