[地域][産業] 草加、越ケ谷千住の先よ(1)−2 …草加と皮革産業

草加、越谷千住の先よ”…昔から日光街道の宿場の位置を指した軽口ですが、元を正せば草加、越谷のロケーションに疎い人が多かったと云う事か、現在は如何でしょうか?…埼玉県民の私はよ〜く存知ております。切り札は、この方のお力を頂ければ…松尾芭蕉さん「奥の細道千住宿を出立……行春(ゆくはる)や鳥啼魚(とりなきうお)の目は涙…是を矢立の初めとして、行道なをすすまず。人々は途中に立ならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送なるべし。……呉天(ごてん)に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生て帰らばと定(さだめ)なき頼(たのみ)の末をかけ、其の日漸(ようよう)草加と云宿にたどり着にけり。……と云う事で草加にとっては芭蕉さんは大切なお人です。

草加松原遊歩道お江戸以来綾瀬川に沿った旧街道の松並木は草加松原として景勝地でしたが、戦後は荒廃し、大型トラック定期便が黒煙を漲らせ行き交う4号線道路でしたが、パイパス完成を期に道路片側を撤去し辛うじて残存松並木を保護、補植して芭蕉さん由緒の遊歩道公園化したのが草加市自慢の松原になりました。 また塩煎餅の代名詞的な「草加せんべい」も有名ですが、私には口惜しいばかりの存在です…『煎餅、煎餅と威張るな煎餅、わたしゃ入歯で歯がたたない』!、
草加市の旧街道には名代の煎餅店もあり、街筋は昔の商家など多少残り路地を入れば古いお寺さんもあり旧宿場の片鱗は残されております。 この街の現代の変革を見てみますと、昭和30年代が発展のスタート時期となります、過っては文化住宅と庶民が憧れた住宅公団松原団地や獨協大学キャンパス、工業団地の建設と職住学と三拍子揃った街が出来上がったのです。 さらに、現在でも草加市に残る地場産業と云えば、皮革製造、煎餅があります。
が、多少前までは悩まし問題、綾瀬川の水質汚濁は全国ワースト1の時期があったのです。お江戸時代は隅田川鐘ケ淵に流入する可なりの川でしたが流路改修などで流水量が減り、昭和30年代は皮革産業(全国第4位)が繁忙して大量の廃水流入綾瀬川の汚濁に拍車をかけたと考えられます。

photo…綾瀬川舟運の札場河岸跡結局草加市の皮革も墨田区荒川区地場産業と同じく公害対応経費の加重には耐えられず、廃業、転出し現在タンナーは極限され、綾瀬川も魚が住む環境になりました。
このブログでも東京の皮革産業を取上げて来ましたが、そのまた続きが草加市の皮革になる経緯を追跡してみます。……明治も10年を過ぎ軍需品として皮革の需要が活発化しますと近江の先進皮革業地域の甲田地区(米原市梅ケ原)と山川原地区(愛知川町山川原)の人々は東京に進出、当時浅草田圃と云われた新谷町、現在の台東区千束1丁目附近に定着し家業の皮漉きをはじめます。進取の気概のこの人達は繁忙し、更に大規模化を目指して荒川区三河島地区(荒川8丁目附近)に移転成功し地元の名士なども輩出しております。
更に昭和の時代、軍事力の海外進出を加速した大日本帝国は軍需物資の皮革の需要が拡大し皮革製造業者は更なる工場用地を求めたのが、当地草加です。低廉な地価と豊富な水資源は昭和10年一挙に三河島の皮革業者や新参入者は草加の地に集まり、現在の地場産業を構成します。…が、平成30年を契機に公害問題化が起りタンナー(皮漉き)は顕在技術の会社以外は衰退し、川下の皮革製品が創意発展の段階の様子です。…草加の皮革産業には三河島から移転のパイオニア的会社、日東皮革(株)があります、この会社は太鼓用の革も製造しており、お寺さんの護摩祈祷、神社神事祭礼などの太鼓製造に係わり草加地場産業のユニークな一面を見る事が出来ます。
だが、現在の革製品の情況を考えますと量産有名メーカー品とされるブランドの靴類を初め身装品は中国産など外国製品が占めており、革製品の原料供給たるタンナーの仕事がタイトになった一因でもありますが、川下の国産皮革製品の創意発展が頼みの綱、皮革産業復活の「キー」になってもらいたいものです。
          ……先へつづく… 

草加、越谷千住の先よ》
(2) 近藤勇と越谷宿
(1) 草加と皮革産業