[人物] 東京歴史人脈帳 浅草界隈 (7)−10 皮革産業と弾直樹、西村勝三

今年も如何やら梅雨の季節が近いようです。…それに付けても都知事舛添さんの蓄財破廉恥行為は修復不可能かも、都議会の推移から解決の鍵は知事を支持した自民党公明党さんが握っているのでしょう。……しかし両党の曖昧な態度から私が思い出した実話……街中でスリに懐中物を盗られた人のドロボーの叫びに…我を忘れ追跡取押えたお方が警察署で慰労と状況聴取で曰く、…悪いドロボーを捕まえられて良かったと述懐します。……が警察は甘くなかった!…この男実は指名手配中のドロボー常習者と暴露してしまった。 と御同様な結果…叩けば埃の出る体…の御心配が自民公明両党にあるのかも?……その行動が注目されています。……

台東区今戸1丁目都立浅草高校 矢野弾左衛門屋敷跡、新町役所敷地は北へ約400mの広さあり

では浅草の地場産業に戻りまして、この地域は靴屋さんと皮革製品の企業が目立ちますが、この業界日本一の地位を浅草が占めているのです。 なぜ浅草に皮革関連産業が発展したのか調べる事にいたしましょう。…明治の近代化以前の江戸幕府の時代に浅草今戸に矢野弾左衛門を名乗る長吏頭の屋敷があり、ここは新町役所と呼ばれ、被差別民の統治者として幕府の御用を務めておりました。その代償として牛馬の皮革加工、売買の権利を一手に収め可なりの収益を得ていたのです。…が、江戸幕府壊滅で明治新時代に入り矢野は弾直樹と改名して、祖業の皮革技術を基に軍靴製造を発念し兵部省(陸海軍省)の許可を得、王子滝野川の官地を借用し靴製造の訓練所、製造所を明治3年開設します。……

世の中は目先の利くお方が居るもので弾直樹に対抗し靴製造を志す西村勝三が現れました。佐倉藩脱藩氏族の西村は既に新時代到来を確信したのか日本橋の舶来品業者の伊勢屋を手伝い商売を覚えた人で独立して横浜で鉄砲など売買し産を得、官軍大村益次郎と知り合います。維新後には兵部省大輔の大村の許可を得て築地入舟町五丁目に靴製造所 伊勢勝細工場を明治3年に発足させました。早速製品一号を兵部省に納入、国産一番目の革靴です。……弾直樹の滝野川製造所も僅かに遅れ第一号の靴納入に成功、が弾直樹に不運か襲います、太政官(政府)は突然皮革の自由取引を発表し、被差別の撤廃平民化の実現で彼の皮革取扱特権が失われたのです、経済基盤を失った滝野川工場は倒産の憂き目となりました。……

今戸本龍寺と矢野氏先祖墓 墓地整理後塀際に置かれている

…現代生活では身の回りには革製品が多数存在し靴、財布,椅子、カバン、バック、ベルトなど美しく愛着ある実用製品が溢れておりますが、当時、江戸在来の皮革は製靴には不適格で輸入革など使用した様で、併せて西洋製靴、製革(革なめし)技術習得が急務で弾直樹はアメリカ人チャールスや清国人職人を雇用します。西村勝三も製革場を併設しますが明治十年過ぎまで西洋皮革(近代なめし革)の企業(タンナー)化が難航しました。…甲革は当然、特に底革は100%輸入品でした。
さて、この辺りから弾直樹と企業家精神の塊、西村勝三の相違が出始めます。…西村は明治4年には浅草今戸の対岸向島須崎町隅田川の水を利用する製革工場を設置します。一方弾直樹は滝野川工場の閉鎖後明治5年初期に出資者を得て隅田川畔の橋場町元鋳銭場跡に新工場を設置し見習職人数百名を募集し操業しますが技術不足で窮地に陥り、更なる景気の低迷と併せて明治7年には、遂に工場の実権を三越(三井)の手代北岡文兵衛に譲り「弾北岡組」を工場名にしました。一方西村勝三はフランス人職人を雇い巧妙な技術を習得民間人用靴の製造にも成功します。……が不景気は共に痛手となり旧佐倉藩主堀田氏の資金援助を得て家令の依田氏名義で合弁し工場名は依田西村組と改めました。

”好不況はあざなえる縄の如し”一転明治10年の西南戦争で軍靴製造で未曾有の繁忙に救われ、以後軍備増強機運で明治20年頃まで毎年成長を遂げます。……明治22年になると、人生を波乱と失意に身を委ねた弾直樹はその67年の生涯を閉じるのです。…彼の晩年の心境を手代石垣元七は記しております。『今ヤ数百人ノ生徒ハ熟達シテ全国普ク皮革製造所ノ設ケ無キハ無ク、諸靴製造人ニ乏シカラザルヲ見、其志業ノ貫徹成就セルヲ歓ベリ』と……
弾直樹が心血を注いだ靴製造場で製靴技術や西洋式皮革製造技術を習得した職人多数が、…更に西村勝三の工場(桜組と改名)も発展、築地の製靴工場、向島須崎町(現、向島5丁目)の製革工場も職人を排出します。……当然、近代的モダン生活必需用品「靴」の商売はお江戸東京一番の繁華街、人材、素材供給、昔からのコネクション等、浅草が地の利を得ているでしょう。皮革製品企業家は当地に集約されてきました。……江戸時代の皮革の中心地から明治近代化以後も浅草地域は皮革産業発展の必然的な条件を維持していた事になります。
但し、明治期すでに皮革製造業(タンナー)は市街地域から過疎地域の東墨田や荒川8丁目、千住橋戸町などへ強制移転集約され重要軍需用品として大企業も進出派生しております。……次回へ続く… ……前へ戻るく… 

《東京歴史人脈帳》
(10) 皮革製造業の状況(3)高度技術の行方は
(9) 皮革製造業の状況(2) 近代化日本を支えた産業
(8) 現代皮革製造業の状況(1)
(7) 皮革産業と弾直樹、西村勝三
(6) 永井荷風 その3
(5) 永井荷風 その2
(4) 浅草界隈 永井荷風 その1
(3) 浅草界隈 水戸光圀
(2) 浅草界隈 ”武家”
(1) 武家