[人物] 東京歴史人脈帳 浅草界隈 (6)−10  永井荷風 その3

前回に引き続き…文化勲章受賞の当日皇居に於ける式典を詳しく荷風日記「断腸亭日乗」の昭和27年11月3日に記しております。
……晴。朝八時島中氏新に買入れし自動車に乗りて迎ひに来る。朝十時まづ文部省人事課に至りそれより文化勲章拝受までの次第下の如し。坂下門より宮城に入り皇居表玄関エレベーターにて階上の一室に導かれ岡野文相次に吉田首相式部官某々氏らに紹介せられ勲章拝受の順序礼法の説明を受けし後別の広間に至り玉座をはいす。玉座の右側窓寄りに吉田首相左側に岡野文相立ち、吉田首相箱入りの勲章及び辞令を手渡しせらる。  初の休憩室らしき一室に戻り係りの式部官らしき人勲章の綬を解きて拝受者の襟元に結び付け、暫くして食堂に案内す。………以下略…
状況描写が…総ての作品で長けている荷風さんらしくその後の食事のメニューや参加者の行事、歓談など詳しく紹介しております。しかし日記から私の推測ですが…文部省は独身老人の荷風さんと打ち合わせは無理と、中央公論社の島中社長に代理人を御願いしている様にもみえるのです。……
12月16日。陰。後に雨。島中高梨二氏來話。文部省より中央公論社文化勲章年金証書を持参せらる。文書左の如し。…以下略……
荷風さんは受賞後、各界祝宴など島中氏と共に主席し多忙だったようです。その後は島中氏などとの交流が頻繁になり銀座にも現れるようになります。 翌昭和28年には作品の映画化も具体化しました。……
1月17日。晴。Aragon:Les Clochoes de Bale(「パールの鐘」)をよむ。午後東宝映画会社佐藤一郎氏来り先年映画製作の契約をなせし「鳩の町」の礼金残額を持参す。本年五月頃製作に着手すべく台本は久保田万太郎氏に依頼する由。夕刻日比谷東宝事務所写真室に至り仏蘭西映画「快楽」をみる。原作モーパサンなり。同所にて島中氏に会ぶ。マンハッタンに立寄り塩沢を誘ひ島中氏の馳走にて晩餐を松山に喫す。……
昭和29年になると一寸した事件がおこります。……相変わらず中央公論の島中、高梨氏や相磯凌霜氏らと交流し浅草、銀座と似たような行動でしたが、全財産をカバンに入れ持ち歩く性癖の荷風さんが、カバンを電車内に置き忘れる事件がありました。
4月27日。雨霏々。午前九時巡査来り一昨夜電車にて余の紛失せし手下げ革包は米兵これを拾い木更津警察署に届けたる趣なれば同署に赴かれたしと言ひて去れり。正午電車にて……略…
と云う事で木更津の米軍基地で返還され、拾得米兵へ金五千円の礼金を贈っておりますが…当時の新聞紙上では小切手、通帳、現金などの大金拾得者への礼金としては謝礼金が少なすぎるのではと、カンカン諤諤の意見がのっておりました。……ご本人の話では紛失後すぐに小切手類の無効届けを出したので拾得謝礼は適当と言われていたようです……。
…浅草通いと交流関係は同じパタンで昭和30年には「春情鳩の町」より映画化作品「渡り鳥いつ帰る」のヒットと新橋演舞場での「腕くらべ」の上演があり戦後の荷風作品の演劇化はピークを終えようとしておりました。この頃文京区千駄木森鴎外旧宅観潮楼跡に記念館構想で森鴎外詩碑が作られ荷風さんは鴎外の子息”於菟”の依頼で鴎外作詩の「沙羅の木」の揮毫をしており現在の森鴎外記念館にその詩碑があります。……荷風さんの慶応義塾大学教授就任推薦者も師と仰ぐ森鴎外で、当時早稲田文学に遅れをとる慶応文学部の活性を画す大学の依頼に応じた鴎外と上田敏の推挙とされ、結果、文学部主任教授の荷風三田文学を主宰しました。……
……昭和31年(1956)になると断腸亭日乗の行動記載も単純化し浅草と食事は「アリゾナ」と簡略に変化して行きました。翌昭和32年には市川八幡に家を新築しております。が老齢を重ねたこの頃になると上流階級資産家御曹司の面影は全く失せ「市川菅野」の自宅を映画の森繁久弥さんが目撃して「文豪と云われる人があの家に住んでいるのか」と驚いたようですが、ま、森繁は大邸宅の主で有名でしたが。
またドナルド キーンさんの最近書いた物に………私は荷風の「すみだ川」を読んだ。絶妙な言い回しで下町が描写され、それでいて流れるような文章に「これぞ日本語の美」と感動した。古典が専門の私が最初に英訳した近現代文学が「すみだ川」だった。 ひょんなことから荷風と会った。人嫌いで会うことすら難しい作家だったが、五七年か五八年に所用で都内の出版社を訪ねた時だった。編集者から「荷風に会いに行くが、来ないか」と誘われた。喜んで同行した。  家は細い路地の先にある木造平屋建て。年配の家政婦に迎えられた。日本では「きたないところですが」と謙遜して言うことが多いが、本当に言葉通りだったのは初めてだった。床にはほこりがたまり、座るともうもうと舞った。荷風もまた風采の上がらない老人で、ズボンの前のボタンは全開。口元から見える前歯は欠けていた。………

また16,7歳の頃は病身で学業を休止し湘南の病院で療養したり、成人後も牛込の住まいを断腸亭と命名したり、その後は頻繁に中洲とか土州橋などの病院通いをしておりますが、晩年は一転、誰に薦められても受診を拒否し命を短める結果に…出血性胃潰瘍を放置し貧血状態からの吐血で落命します。
更に物書きとしての宿命か! 多様な人々の心理、表情、仕草と行動との連動性を常に観察している様子が日記などからも分かりますが、姻戚関係にある大島五叟家から転居した小西茂也(フランス文学者)宅では真偽は不明ですが、夫婦の居室を覗く性癖が問題になり退去…自宅購入転居を招いた話など?……私は直ぐに有名な天井桟敷主宰者の歌人、劇作家で多才な寺山修司さんの起こした事件……昭和55年に渋谷区内でアパート敷地に住居侵入し「のぞき現行犯」て逮捕、起訴された事件がありました。……ま、困った事は”一般常識論とは並の才知の人々の尺度”と云われる事でしょうか?、……前記のドナルド キーンさんの発表した…天才歌人石川啄木の秀逸な作品とは乖離した破滅的な人格、生活面にも焦点を当てた文学研究の提案は、今までの視点からの見直しなのでしょう。……非常識が天才を育むのでしょうか! ……
荷風さんの終焉は…昭和34年3月に浅草のレストラン”アリゾナ”で食事後路上に転びタクシーで辛うじて市川八幡に帰宅後は体調を崩し食事は近所の大黒屋食堂でカツ丼と酒一本の定番を摂っていましたが、…4月30日朝、自宅で亡くなっているのが発見されました。…永井家の雑司が谷墓地に葬られましたが、生前彼が望んだ遊女の投込み寺こと三ノ輪浄閑寺墓地の「新吉原総霊塔」の前に”宮尾しげを”と住職や発起人42人、森於菟、野田宇太郎小田嶽夫などの手により昭和38年5月18日詩碑と筆塚が建立されております。
私が感動した記事……毎日新聞社刊”荷風思出草”には、日記”断腸亭日乗”にも頻繁に名の出る親しい”凌霜子”こと相磯凌霜氏との対話で述べております。
『余死するの時、浄閑寺に葬る手順。…遺骸を差荷の駕籠に入れ、なるべく雨のショボ降る夕暮れ時、お伴は相磯氏只一人が冷飯草履をはき、尻っぱり姿で、ボンノクボまではねを上げて、トボトボ三輪の浄閑寺に送り込むという話である』……大正、三ノ輪浄閑寺岩野喜久代著(シリーズ大正っ子)青蛙房より……
……次回へ続く…     ……前回へ戻る

《東京歴史人脈帳》
(10) 皮革製造業の状況(3)高度技術の行方は
(9) 皮革製造業の状況(2) 近代化日本を支えた産業
(8) 現代皮革製造業の状況(1)
(7) 皮革産業と弾直樹、西村勝三
(6) 永井荷風 その3
(5) 永井荷風 その2
(4) 浅草界隈 永井荷風 その1
(3) 浅草界隈 水戸光圀
(2) 浅草界隈 ”武家”
(1) 武家