[地域][歴史] 皮革産業木下川 (4)−6 東墨田木下川地区の発祥 

さて、今回は木下川をよく知る事から始めて、その成立ちを調べてゆきたいと思います。……
東墨田の木下川地区には、その名の川があった筈ですが、ご存知でしょうか?… さっそく地図を開いて見ますと荒川放水路墨田区側には旧中川の廃川だけが目に付きますが、記録によると、江戸時代以前から木毛川と称する地名が存在し、江戸後期には木下川(きねがわ)と転化して存続しています。現在の中川の流路を辿りますと葛飾区四つ木の南で荒川放水路に沿う新流路に改修され荒川と伴流して海へ流れ東墨田側に残る旧中川と分断されております。


東墨田木下川地区タンナー工場(皮鞣し)                     この失われた部分がいわゆる上木下川、下木下川と呼ばれる村が存在した地域で荒川放水路開削工事に伴い大正3年(1914年)に廃村、下木下川村部分が墨田区吾嬬町(現東墨田町)に分割編入されたもので、現在の東墨田地域を昔の木下川地区と称しているのでしょう。
なお、東墨田3丁目に白髭神社と満福寺がありますが下木下川村の鎮守とお寺さんで荒川放水路用地の真ん中にあたり大正4年と明治44年にそれぞれ東墨田(吾嬬町)に移転してきたのです。…
中川と云う河川名は明治以後に成立した筈ですから、旧中川の下流部分を木下川と呼んでいた地域が在ったと考えられます。 それでは中川とは…以前には埼玉県吉川で古利根川との合流部の上流を庄内古川と呼び、明治期に古利根川合流点から東京湾河口までの流域とを併せて統一名称「中川」となりました。その中川成立の理由とは大河”古利根川”は既に廃川となり「悪水大落し古利根川」と呼ぶ農業用水になっておりました。
関東各地は河川史と複雑に絡みあい切りがありませんが、ものは序で、中川の変遷……、江戸時代、利根川東遷事業完成以前の庄内古川(中川)とは利根川本流として「利根川新川通り→権現堂川→庄内古川→野田橋上流で現江戸川流路→東京湾」と、…利根川変遷のキー的河川であった時期があります。 上記の通り庄内古川は野田橋上流(埼玉県松伏町金杉)迄で、そこから古利根川合流点まで3,7kmを大正時代に掘削通水して人工河川中川が誕生したのです。…起点を羽入市として東京湾に流れ込む83,7kmの流路。
注)利根川流路につして→バックナンバー《利根川東遷事業http://d.hatena.ne.jp/hakyubun/20140708/p1

…戻りまして、現在東墨田地域で木下川名の残る施設に荒川に架かる木根川橋(木下川)、旧中川木下川排水機場、きねがわ産業資料室(旧木下川小学校)などがあり、葛飾区側にも木下川(木根川)名の寺院、小学校、区施設が存在します。 また、皮革に関連する記録として古い記録には寛政12年(1800)浅草弾座衛門の文書に木下川久兵衛以下7軒の配下の存在が書かれておりますが、この低湿地でも農業が営まれ弊牛馬処理の職掌がなされていた可能性はあります。
明治時代に入りますと被差別者の専制職掌皮革業は剥奪自由化され同時に開放令も出されます、弾直樹の滝野川の西洋式工場は一挙に財政基盤を失い倒産、新たに全家産を注ぎ込み隅田川畔の橋場に新工場を建設します。…
この時代明治10年〜20年頃の木下川地区の情況はただの寒村で皮革産業と云えるものは存在しておりませんが、弾直樹や西村勝三の西洋式製靴工場の立ち上げを見て、滋賀県の先進皮革業地域の甲田地区(米原市梅ケ原)と山川原地区(愛知川町山川原)の人々は東京に進出、伝来の皮革業に懸けます。  この人達が住み着いたのが当時浅草田圃と云われ、その後新谷町、現在の台東区千束1丁目の金龍小学校附近です。ここは用排水が整備され当時千束には「と畜場」も出来て原皮の取得や弾、西村などの新工場との取引が期待できる地域として皮鞣しを始めました。この進取の気性の近江の人達は東京での皮革産業の発展に貢献しており成功者も輩出します。
明治20年(1887)に至り木下川地区には僅か3軒の鞣し業者が存在しております。 此の時点での皮鞣し業の地域は弾直樹系統の人々の台東区の旧亀岡町(新町)と滋賀県からの移住者による旧新谷町での操業が主流でしょう。……
明治25年(1892)政府は魚獣化成場取締規則を定め、東京市内での新増設を禁止、明治35年(1902)以後の皮鞣し業の市街強制移住を通告しました。
移転先は墨田、荒川の低湿劣悪地です。……
 ……先へつづく… ……前へ戻る

《皮革産業木下川》
(6) 戦後の盛衰
(5) 東墨田木下川地区の成立
(4) 東墨田木下川地区の発祥
(3) 東墨田木下川地区とは
(2) ピッグスキンの将来は…
(1) 東墨田皮革産業の今昔