[産業][歴史] 皮革産業木下川 (5)−6 東墨田木下川地区の成立

では、木下川地区発祥の第一ステップ……政府は明治25年(1892)魚獣化成場取締規則を定め、明治35年(1902)以後の皮鞣し業の市街強制移住を通告しました。……移転先は墨田、荒川の低湿地です。
しかし…既に早くも明治20年には荒川三河島では既述の滋賀県甲田地区出身の大野房次郎、秋元源弥と弾役所手代笠原家の笠原文蔵など皮革産業成功者達は狭隘な浅草新谷町などを見切り荒川区三河島地区に(現、荒川8丁目附近)に新工場を操業させておりました。 なぜか…明治16年(1883)には三河島に日本家畜市場株式会社が設立され、1890年(明治23年)屠畜場も出来てタンナー工場の適地と考えられます。中でも秋元源弥は軍用革から油脂、肥料工場、千住屠場社長、日本皮革(現、ニッピ)取締役を歴任し三河島地区の名士となっております。   (注)明治23年設置の屠畜場は現在の京成新三河島駅の西にある東京電力尾久変電所附近。
なお、三河島地区の皮革産業は昭和の戦争拡大期に軍用品生産工場敷地を求め地価、水利の適地、埼玉県草加地区に拡大移転してゆきます。


photo…東墨田に住宅街
さて、戻りまして明治35年(1902)の強制移転で補償があったのか、木下川地域などへの強制指定など詳細は残念ながら判明しませんが、皮鞣しを家業とした人々は三河島、木下川地域へ移住して行き、明治43年(1910)になりますと木下川の皮革業者と云えるタンナーは25軒程度とされ、その他移住技能者が職人として働き集落が構成されていったのでしょう。 そこから更に発展し現在の集約密集した街に変化成立したのでしょうか?…
皮から革に商品化される行程は多岐に分れそれぞれが専門の職人が介在します、先ず大雑把に分類して、鞣し→染色→絞り→張り皮→皮漉き→計量など各々職人の手で行なわれますが当時の手作業、人力の時代では僅かな仕事場が在れば職人が自立できたのです。その結果として各職自立職人の家々が有機的に結ぶ製造ラインの役割を果たす合理的な密集地帯が構成されたと考えられます。
国民生活、服飾の西洋化、軍事拡大など近代皮革産業の需要は伸びて行った明治後期から大正昭和にかけて木下川地域に大規模皮革工場が進出、更に発展したと考えられ、戦後の昭和39年(1964)頃でも明治製革、秋元皮革、丸見屋、協和レザー、石井製皮、広瀬皮革などが操業しておりました。
……現在木下川地域の皮革大手企業は壊滅、存在しませんが、上記明治製革の操業以来の経緯を追跡してみましよう。
明治44年(1911)10月… 資本金100万円にて米国式底革の製造を目的として明治製革株式会社を設立
大正元年8月… 東京都墨田区に工場を新設、操業開始
大正10年9月… クロム革の製造開始
昭和19年9月… 長野県飯田市に工場新設
昭和31〜32年… 銀付甲革(D判)の開発、生産開始
昭和36年10月… 東京証券取引所 市場第二部に上場・創立50周年
昭和43年11月… 本社工場の製造部門を飯田工場に移転集約し、 生産の一体化を図る
昭和52年12月… 資本金5億375万円に増資
昭和57〜59年… カーシート用革を開発
平成2年7月… 会社名を明治製革株式会社からメルクス株式会社に変更 創立80周年
平成12年9月… 環境に配慮した新商品(クロムフリー)の商標として家具用、車用「エコソフト」、 靴、バッグ用「エコタン」、「エコニティー」を登録
平成17年7月… 中国海市に合弁会社・海市森美如可思皮革有限公司を設立
平成24年6月…倒産、民事再生法申請
平成25年1月…再生計画案の認可決定。 100%減資、新資本金は中国皮革企業の傘下に入る。
……と、タンナーからインテリア用途のレザー製品まで手掛け頑張った大手企業でしたが、中国製品など外国製品との競争に破れ残念な結果となっております。
東京の地場産業地域から大手企業撤退の要因として……都市居住地を避け僻地を選び操業した皮革産業でしたが、都市化の波に侵食されてゆくと、工場排水、産業臭など先住者と云えども看過されず、さらに公害問題が政治化、法案化して過大な企業負担が発生します。
遂に昭和から平成にかけて木下川地域から大手製革業者が消滅しました。             ……先へつづく… ……前へ戻る

《皮革産業木下川》
(6) 戦後の盛衰
(5) 東墨田木下川地区の成立
(4) 東墨田木下川地区の発祥
(3) 東墨田木下川地区とは
(2) ピッグスキンの将来は…
(1) 東墨田皮革産業の今昔