[産業][歴史 皮革産業木下川 (6)−6 戦後の盛衰

現在の東墨田(木下川地区)とは以前の向島区吾嬬町です。中居掘を挟んで西、東に分かれて居りましたが、昭和40年の町名改訂で現在の東墨田と八広、立花、文化などと返って複雑化された地域です。
中居掘は戦後埋め立てられました。 八広町と東墨田町の境界を平行した2本の広い道路が走る不思議な光景がありますが、その一本が仲居堀跡の道なのです。 今度は一旦町内に入りますと細い道が自由奔放な迷路を構成して方向感覚が失われ、八広の街を抜け出すのが大変だった事がありました。 永井荷風さんの濹東綺譚の玉の井界隈の有名な”抜けられます”を思いだしましますが案の定、東向島(寺島町玉の井)と八広はお隣の町でした。
その昔、東京府南葛飾郡寺島村字玉の井の頃”玉の井”は蓮田と田圃が散在する低湿地で、各人勝手に埋立て家を建てた宿命の街が迷路と水捌けのドブだったのです。…向島名物「迷路」が構成された根源なのでしょう。
さて本題へ、木下川地区から大手タンナーが消滅した後の中小タンナーの動向は……大手企業と混在していた時代は牛、豚、馬など手掛けており、今の木下川が豚革生産に特化された理由として…零細な企業としては投資設備費の少ないピックスキンに集約されて行ったのでしょう。 また、現代の食生活の洋風化で屠畜数の増大した豚皮供給は潤沢で生皮の輸出も可能になり原材料の安定は最大のメリットなのです。……過っては大手タンナーが撤退した一因として原産国(アメリカなど)の牛原皮輸出規制など生皮不足の経緯もありました。
木下川ピッグスキンは昭和30年(1960)代の好況期には服飾、スポーツ、レジャー用具に皮革需要が好調で、更に滋賀県山川原出身の丸野和夫さんの努力で画期的な豚革のソフト化技術が完成、その他染色技術、エンボス技術(成型)の高度化を成し遂げ、ヨーロッパファッション素材としてスエード類などの輸出で活況したのです。
注)エンボス技術→例としてクロコダイル、オストリッチ形状に豚革を加工する。
……が、繁栄は衰退に転化しました。……技術は一挙にアジア諸国台湾、中国、韓国に波及しコスト競争力の弱い木下川は今日に続く低迷期が続いております。
しかし、衰退したとは云え全国ピックスキンの生産量8割を占める木下川です、起死回生の最後のチャンスに努力が待たれます。……世襲農業に対する政治の過保護など不公平感が頭を過ぎりますが、その話しは置いて、タンナー業の「高度化」、「企業合同」と天然資源製品の特徴を存分に開拓し技術革新で厳しい道の選択肢以外は無いのでしょう。………
地場産業と云う面で私は千葉県野田市の醤油醸造業を思い出しました。武田信玄の時代に遡る伝統の醸造家達が出し抜き出し抜かれ千々に乱れた各家の情感を乗り越え、千葉県銚子などのライバル企業の台頭や各家バラバラの意識の危機を自覚し、エゴを排除して大正6年(1917)必至の「大合同」を完成、野田醤油株式会社を設立して世界企業キッコーマン株式会社に発展したケースがあります。
また、「高度化」と云う面ではタンナーは製品化行程は同一ですからライン化即ち徹底した合理化でコスト低減の追求に合致した業界でしょう。
現実にタンナーが一致行動した成功例があります。……田中角栄さんが通産大臣の頃の話ですから40年以上も前でしょう、と畜場で肉を採取する過程で新技術「湯はぎ」という温水を利用し肉と皮を簡易に分離する方法ですが皮は廃棄物と化します。この生皮確保の危機に業界一致して阻止した運動の成功がありました。更に思わぬ結果は現在の良質豚生皮のアジア諸国へ輸出と云う活路も開けたのです。……
地球規模での皮革産業の現状は西洋先進国のハイクオリティーな皮革製品の存在感と競争力の維持確保の現実をみると東京の皮革産業の将来を示唆しており、まだまだ伸び代ありと考えるべきでしょう。……前へ戻る


参考資料…”木下川地区のあゆみ”木下川沿革史研究会編 現代企画室

《皮革産業木下川》
(6) 戦後の盛衰
(5) 東墨田木下川地区の成立
(4) 東墨田木下川地区の発祥
(3) 東墨田木下川地区とは
(2) ピッグスキンの将来は…
(1) 東墨田皮革産業の今昔