[歴史][地域]  糞尿譚(2)−6 西武鉄道、東武鉄道の屎尿輸送 -2016 08 14更新-

お江戸の頃は商品とし取引された糞尿ですが、御一新後の東京は近代的大都会を指向する様になりますと、インフラとしての下水道不備が顕著になり、近代化過程で大きなトラブルとなっています。
明治期の東京でも西洋式のビル建設が始まりますが早速糞尿譚が語られます。……当然和式便所に変わり水洗トイレが採用されますが、下水道がなく堀や川などへ無闇に放出しており、当時の内堀端などでも臭くて歩けなかったと云われます。また丸の内のビルでは地下に水洗トイレの貯留層を設置して人力による汲出し作業をしており、この監督が三菱地所の新入社員の職掌だったそうです。 この明治糞尿譚はすでに社会問題になっており、新聞記事などでは臭気に堪えかねてホテルから逃げ出す外国人の話や、下水道の早期完成促進論、警察が主張する不衛生水洗便所禁止論、更には下肥としての商品を下水道による排出の経済的損失論などもあり、当時の東京の実態が垣間見えます。
さて、肥料としての都会住民の”し尿”は江戸時代以来の舟による農村還元が主流でしたが、河川舟運可能地域に制約もあり、昭和に入りますと内陸農耕地に迄配送出来るトラック運搬が台頭し徐々に陸運へてシフトを始めます。
農民により始まった屎尿農村還元でしたが、運搬用のトラックを所持し、屎尿汲み取り人を雇い商品を集め、例えばフオード4トントラックに90樽程度を積載して顧客農民への配送は、場所によりますが一日4往復程度の稼動が出来たと云いますと、かなり合理的な企業活動が行なわれ、一時代前の清掃会社の原点かと思います。
が、……残念、大日本帝国アメリカ、イギリス、オランダを相手に昭和16年12月8日宣戦布告をして、国民を巻き込み奈落への道を辿ります。昭和20年8月15日に無条件降伏しましたが、東京は焼野原と化し、戦時すでにガソリンは無く、トラックは空襲で焼かれ敗戦直後の下肥流通は頓挫しました。……ここに至り社会衛生上膨大な屎尿処理の困窮度はかなりのもので、東京都や各自治体でも山林に穴を掘り、また多摩川河畔の砂利採取跡の砂利穴などに糞尿投棄しており、役所による不衛生処理実態が戦後の新聞で報道されていました。
……実はガソリンなど燃料の統制が昭和16年の太平洋戦争開戦後厳しく、燃料不足は船舶、自動車にも及び戦争末期の昭和19年には遂に東京都長官(知事)は西武鉄道堤康次郎氏に屎尿の鉄道輸送を直々に懇請し堤氏の承諾を得て早速西武新宿線井荻駅側線に屎尿集溜槽を設置し同年11月には盛大な糞尿鉄道輸送開始祝賀会が行なわれ、農林大臣、内務大臣、東京都長官などが出席し、さっそくホッパービンから貨車へ積み込み作業を開始、黄金色に輝く屎尿の奔流に出席者はアッと息を呑んだと記録(堤康次郎氏手記)されています。

photoアサヒグラフ−昭和21年6月25日 画像詳細…西武新宿線井荻駅屎尿集溜槽の状況、貨車は電車により牽引され積込み側線に停車中、画面左のコンクリート突出壁毎に積み込用ホースが垂れ下がっている。一方屎尿貨車の上部に注入口が見える。屎尿注入作業はバルブではなく、ストッパー板の操作による。突出壁にストッパー板が見える。……

輸送先貯留槽設置駅は田無駅東小平駅、小川駅など、一方西武池袋線の積み込み駅は東長崎と江古田駅間の新貨物駅長江駅に貯留槽を設置し、配送先は清瀬駅狭山駅高麗駅の貯留槽でした。
堤康次郎氏の新事業への述懐………私は、毎日2万石の糞尿を都心から郊外に運べば、東京都民にも感謝された上、沿線農家からも喜ばれると思った。
 肥料不足の折から農業をしている人々が、駅ごとの肥溜へ殺到するに違いないと考えていた。 処が当て事はよく外れるものである。手不足の上に、金肥になれた農家は、喧しく触れ歩いても中々汲み取りにきてくれない。これには困った。 都民の家庭の糞づまりは解消したが、西武の各駅は糞づまりとなった。……
と、この事業の終焉は農業用化学肥料の普及が下肥需給のアンバランスを起こし、また東京都による大型船舶による大島沖への糞尿海洋投棄が本格化し旅客鉄道による屎尿輸送は終りました。
西武鉄道による屎尿輸送は昭和19年〜昭和28年 (注)所沢駅には新設備として糞、尿の分離装置の計画がありました。


photo-高道(たかみち)と春日部市南部浄水場 旧東京都屎尿貯留槽跡

東武鉄道屎尿運送の実態
なぜか東武鉄道では糞尿輸送に関する公的記録など見当たらないようですが、その実態とは……東京都からの要請は西武鉄道と同時期だったようで、昭和19年6月には屎尿列車の運行が開始されます、当時の積込み駅は北千住駅の南、大踏切の牛田よりに千住貨物駅があり、そこに貯留槽を設置し北越谷駅武州大沢駅)、武里駅東武動物公園駅(杉戸駅)にそれぞれ配送用の貯留槽を設置しています。 東武スカイツリーライン武里駅を調べてみますと往時武里団地建設に伴い春日部町が市に昇格する人口流入があった公団住宅の最寄駅です。…では糞尿貯留槽の跡地の探索…駅側線は構内に跡地が残されておりますが、昔の田舎駅とは云え貨物取り扱い用の側線です、さすがに糞尿貯留槽は引込み線を設置して離れた場所に存在しておりました。 

先ず武里駅東口下車、春日部方面に屈折した道の商店街が続きます、間も無く昔の用水路(会之堀)に武里橋が掛かっておりその先交差点でクロスする道を右折、昔の高道(たかみち)と呼ばれ会之堀の溢水を防ぐ土手道だったのでしょう、今は平坦、2,3分も歩けば春日部市南部浄水場の貯水槽があります。実はここが以前東京都が設置した糞尿貯留槽の跡地なのです。皮肉な事に昔は人体から排泄された屎尿の貯留、現在は人体に取り込む飲料水の浄水槽、で駅からここまで専用貨車の引込線が在ったと云う事です?……ま、ま、そう慌てないでください、市役所に確認はしておりませんが、今のコンクリート製の浄水槽は新設だとは思います。………
更にこの高道を逆方向に行きますと本線踏切りを渡り4、50m先の左側、会之掘の間には東武鉄道設置の糞尿貯留槽があって同じく引込線で専用貨車が作業をしておりました。と云う事で武里駅には都合2箇所の貯留槽が存在したわけです。東武鉄道屎尿輸送も西武と同じ理由で昭和26年頃終了しております。現在の周囲近辺は年月が総てを流し去り”知る人ぞ知る”遺構です、昔日の痕跡はありません。
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《糞尿譚》
(6) 江戸東京リサイクル
(5) 江戸東京リサイクル昭和へ
(4) 東京下水道物語
(3) 河川、海洋、船舶
(2) 西武鉄道、東武鉄道の屎尿輸送 -2016 08 14更新-
(1)  鉄道編