[地域][産業] 醤油の街野田市 (1)−3 世界の調味料「醤油」

既に世界の調味料としてソイソース(醤油、Soy Source)は存在感がありますが、キッコーマン醤油が1957(昭和32年)年サンフランシスコに進出以来、努力の結実です。 しかし世界は更に新興諸国の大きい市場が存在しています、日本伝統の食品産業の更なるグローバル化達成が楽しみです。
昭和30年代日本のビジネスマンの奮闘努力が偲ばれます、話はとびますが、私も昭和34年に寄港したハワイマウイ島カフルイ港でトヨタクラウンが一台疾走しているのに出逢い目をみはりました。アメリ自動車産業の全盛期、日本車は高速道路走行は無理と云われた時代です。…企業、組織の困難な時代とは云え、有能な人材があれば道は開けるのでしょう。 
     
醸造家見世、住居
            
             
キノエネ醤油見世
では、キッコーマンの城下町野田市の概要から始めます。
千葉県の北西端江戸川と利根川に囲まれた角の様な地形で、南は利根運河を底辺にした一帯が野田市です。北端は江戸城の要害関宿城と江戸川の起点、利根川からの分流地{関宿}です。 江戸時代は、お江戸を目指す高瀬舟利根川から江戸川に乗り入れる要衝でもありました。
南端は利根運河に接し、オランダ人技師ムルデルの設計監督により明治23年竣工、江戸川と利根川をショートカットして結ぶ運河で全盛期は東京から利根川沿岸や銚子港行きの蒸気船も盛んに利用した水路です。
現在も里山谷戸に囲まれた風光明媚な遺構としてそっくり8.5kmが保存されております。 その他、既にリタイアされた御年配のゴルファーにはお馴染みの名門、梅郷コース、むらさきコース、川間コースなど、また利根運河際には東京理科大学瀟洒広大な野田キャンパス、柏屋こと茂木七郎右衛門の清水公園は紅葉の名所です。……
さて、東京近郊にも拘らず野田市はアクセスが限られ一般的には馴染みの薄い土地柄かと思います。鉄道は大宮、春日部、柏、船橋を結ぶ東武野田線で単線区間もあるのです。…その昔、現在の東武野田線愛宕駅野田市駅間の西側に多くの醤油醸造家で街並みが成立、今も街の中心部分を構成しております。
ここで、醤油の町野田の発祥とキッコーマンの成立ちの過程に移ります。
伝承になりますが永禄年間(1558〜)には野田の飯田市郎兵衛が武田信玄に醤油を納めたのが野田醤油の始まりと伝えられて以来、野田の伝統産業として今日に至りました。
近代から現代に至る醤油醸造家の簡単な歴史推移、…確認できる資料では高梨兵左衛門が寛文元年(1661)に創業、その後茂木七左衛門などが次々と開業し百二十年後の天明元年(1781)には醸造家仲間が結成されます、大消費地江戸に近く江戸川河岸から高瀬船を利用した物流で、繁栄,発展が続きました。
明治を経て大正時代に入りますと、紀州醤油の流れを汲む一大産地銚子醤油業の発展や、野田の醸造家同士の拡大競争が激しく、更には同族醸造家の離反や醤油業界は過当競争時代を迎え、危機感を共有した醸造家達は合併集約し合理的な近代化を協議して大正六年(1917)に至り、集約結集の協議は遂に野田醤油株式会社を設立します。この協議には渋沢栄一氏が招かれ意見を求められております。
それにしても三百四五十年にも亘る歴史の各醸造家だけに養子縁組、婚姻、分家などと入り組み複雑に繋がる伝統社会を近代企業に集約した快挙は、地場産業を世界企業に発展させた重要なターニングポイントだったと思われます。…
ちなみに参加醸造家は高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木佐平治、茂木七郎右衛門、茂木勇右衛門、茂木l啓三郎、茂木房五郎、石川仁平治と流山の味醂醸造家の堀切紋次郎などで各家醤油蔵を現物出資した結果、現在のキッコーマンのプラントが野田市内各所に散在している理由です。

キッコーマン本社(野田市
野田醤油になってから昭和の初めには労働史上特筆される労働大争議、、昭和中期にはキッコーマン中興の祖といわれた養嗣子二代目茂木啓三郎などに関しては割愛いたします。
お馴染みのキッコーマン印は野田醤油創立時に醸造家茂木佐平次の登録商標で統一したもの、合併以前の各家の醤油商標は数百点にも及んだそうです。現在に至る会社名の推移は、 野田醤油→キッコーマン醤油→キッコーマンに変化して事業内容の推移を表しております。
今回は面白い話はありませんでしたが、次回はこの伝統の街に残る遺構など、東京近郊の街歩きの穴場を巡ります。……次につづく

《醤油の街野田市
(3) 醤油の街を散策
(2) 人車鉄道という物流
(1) 世界の調味料「醤油」