[河川][歴史][交通物流] 江戸舟運(2)ー2 文明開化の”あだ花”外輪蒸気船と利根運河

話は”ついで”と今回もお江戸を支えた物流利根川舟運の終末期の状況を、毎度大雑把ながら調べてみました。明治の初期、利根川の主役高瀬船に併せて外輪蒸気船が導入され東京を基点に関東各地に航路を開設して交通物流路を構築しておりました。可なり高度なシステムで、この継承が近代の鉄道と云える筈です。
その類似性から始めますと……舟運の基本、「河川」の役割が鉄道の「線路」に当ります、その「駅」が即ち舟運の「河岸」です。…河岸には積荷の蔵が拠点となり地場産地と繋がっておりましたが、戦前鉄道の駅にも必ず引込線と倉庫があり物資の集散をして鉄道貨物の確保をしておりました。移送手段として舟運は「外輪汽船」、陸運では「汽車」と、共に蒸気機関を動力として運ばれます。……外輪蒸気船の導入は意外に早く御一新後の明治4年(1871)、すでに小名木川万年橋の利根川丸商会で50トンの外輪蒸気船が建造され就航しておりました。 
更に明治八年には続々と新造蒸気船が就航し、明治10年…戦争大好き人間「安倍総理大臣閣下」の故郷、長州勢が西郷隆盛を殺す 西南戦争をしていた時代に”お江戸東京”では内国通運(日本通運の前身)が4隻の外輪蒸気船”通運丸”をもって定期航路を開業し小名木川、江戸川各河岸経由利根川から渡良瀬川の古河、思川の栃木県生井河岸(小山市)までの航路や霞ヶ浦の最奥部への高浜航路が開設されました。この内国通運の第一通運丸は石川島平野造船所(IHIの前身 月島石川島地域)明治10年2月竣工の60トン(総)でスチームエンジン斜置複筒式の外輪推進器船型で、この外輪推進装置が水深の浅い河川運行に適合し発展できたのです。しかし、この外輪蒸気船を一時期とは云え繁忙に導いた事業として「利根運河」の開削通水がありました。…前回の話に在りました「利根川、江戸川の河床隆起による航行困難」の解決策として発案されたのが利根川、江戸川航路の問題部分の手前でショートカットした運河航路の開削です。…しかしこの時期、すでに舟運壊滅の決定的なシナリオ、河川管理の変更があります。江戸時代の舟運優先の「低水工事」から明治新時代には治水優先の「高水工事」となり…滞水を防ぐ流路の直線化、広大な河川敷、堤防を築く事で船舶航行の困難、河岸の壊滅へと繋がって行きました。

……前回まで取手に付きましては平将門伝説、小堀艀河岸など取り上げてまいりましたが、利根運河計画と実行者「広瀬誠一郎」は取手市(下高井村)出身で茨城県会議員となり茨城県令(知事)人見寧を動かし可なり強引に計画を実現させた情熱家てす。この計画に東京府、千葉県、国の賛同を得られなかった理由とは……物流近代化の国の方針が既に鉄道計画であり開通している地域まであったのです。しかし舟運物流の振興が郷土発展の手段と固く信じた二人は困難な資金繰りを解決し実現させた経緯があります。…が、遂に完成に達した明治23年6月18日、総理大臣山縣有朋など高官出席の竣工落成式に「広瀬誠一郎」と設計工事担当のオランダ人「ムルデル」の姿は在りませんでした。完成を待たず広瀬は過労により世を去り、お雇い外国人ムルデルは政府命令で帰国していました。……現在、利根運河の遺構は美しい里山の景観のなか全長8.5kmの原型を保ち保存されております。(東武野田線運河駅下車 野田市流山市柏市の境界)利根運河の詳細はバックナンバー「筏から蒸気船まで利根運河」を御覧ください。http://d.hatena.ne.jp/hakyubun/20120923/1348400297

利根運河の遺構 東武野田線運河駅付近)

外輪蒸気船に戻りまして…明治16年になると両国汽船発着場から銚子行が開設されますが、江戸川、利根川の河床隆起部分を避け江戸川流山から利根川布施河岸までは陸路経由の乗換便でした。…東京から銚子や霞ヶ浦土浦、高浜便の本格的な営業は「利根運河」が開通後の明治23年(1890)になります。開削通水20年経過の明治43年の通運丸銚子便の直行航路行程は……日本橋蛎殻町発着場を夕方の18.00発→江戸川松戸河岸23.00→利根川取手河岸に翌朝03.40→利根川佐原河岸08.30→銚子湊着12.20で全航程18時間20分程かかっておりました。

(両国汽船発着場)
では最後の締め括りは、東北諸藩の廻米が仙台石巻から海路直航の江戸湾経由で江戸に送られず、銚子湊で利根川舟運高瀬船に積換えていた理由?、………江戸時代すでに北前船航路や南海路航路で海運物流は裏日本、瀬戸内、大阪、江戸へ西回りで結ばれていましたが、仙台石巻からの東回り航路では海の難所房総沖があります。…黒潮親潮がぶつかり太平洋に押し出る激しい潮流と特に冬季の季節風の海況です、和船など太平洋に押し流されて、後は海の藻屑か、運が良ければジョン万次郎さんの様にアメリ捕鯨船に助けてもらうしかありません。西洋帆船に比べ和船帆掛け船の構造は脆弱で風波に弱く、昔から『待てば海路の日和あり』と各地で多少の荒天でも避泊を繰返し航海しますが房総九十九里浜の短い海岸線は避泊地がありません。鎖国の影響で西洋型帆船と航洋航海術の不在と、現代でもボリバー丸、カリフォルニア丸の巨船が破断沈没する海の難所の克服は当時不可能だったのです。
         ……おわり…        ……前へ戻る

《江戸舟運》
(2) 文明開化の”あだ花”外輪蒸気船と利根運河
(1)キーストン 取手宿小堀河岸