[河川][地域]  江戸川(3)−7 味醂の街流山と近藤勇、小林一茶

流山市は千葉県野田市松戸市に挟まれた街です。この地は江戸時代には良質の水と名産の米を利用した味醂醸造が盛んでした。また、お江戸の物流大動脈の河岸としても栄えた街です。更なる歴史は附近の原野は平将門以前から馬の牧として受け継がれ、江戸幕府は小金牧でオランダやペルシャからの輸入馬を放牧し馬匹改良など行なっています。……


上)流山旧街道 下)一茶双樹記念館
もう一つ流山の歴史で欠かせない話は、元享3年(1323)鎌倉北条氏の時代に遡りますと下総国相馬郡を所領する六代目相馬重胤は一族の争いから知行地の奥州行方群に移住し奥州相馬氏を名乗ります。 …行方群一帯は初代師常が源頼朝から賜わった地。
奥州相馬氏におさまった重胤は先祖平将門以来小金原で行なわれた野馬追いを奥州でも始めたとされ『相馬野馬追い』は今日まで受継がれ勇壮な騎馬武者の神事が福島県相馬市で有名です。……「相馬流れ山 習いたかござれ 五月中の申お野馬追い」…相馬流れ山節の歌いだしです。
流山市も暫く前に、つくばエクスプレス流山セントラルパーク駅やJR武蔵野線南流山駅が出現ニュータウンとして発展を初めましたが江戸川沿いに繁盛した古い街は流山鉄道の終点、流山駅利用になります。…
先ずは味醂と街の由来から。……現代人にとって味醂とは?、調味料、あとは一寸思いつかないのでは!。私など昭和一桁生まれにとっては、子供時代の記憶に正月元旦”お屠蘇”を飲み家族全員で新年を祝った記憶が残っております。この「お屠蘇」とは味醂屠蘇散(延命長寿の漢方薬)を浸した飲料で甘くて薬臭いものでした。……今ではバラエティーに富んだアルコール飲料を楽しみますが、現在でもお屠蘇の習慣は残っているのでしょうか?……

またお江戸の時代はお酒が飲めない御婦人方は甘い味醂酎を喜んで飲んだとあります。…本直し味醂の一種)は冷やして夏場の人気飲料でした。
…良質の水に恵まれた流山で、更に天明二年(1782)と文化十一年(1814)五代目秋元三左衛門と二代目堀切紋次郎がそれぞれ白味醂「天晴}、「万上」白味醂の製造に成功して一躍、下総流山の味醂は江戸、京都、大阪で名を馳せたと云われます。 勿論この味醂は地の利を得た江戸川河岸から高瀬舟で運び出されていました。 注)…味醂醸造の原材料は、うるち米、もち米、焼酎。
上)流山旧街道 下)秋元三左衛門醸造天晴れ味醂ラベル、堀切紋次郎醸造万上味醂 
            


江戸川べりに醸造所と居宅を構えた”天晴れ”味醂の五代目秋元三左衛門は双樹と云う俳号を持ち、俳人小林一茶が延べ約百三十泊、寄寓する深い交友を結びます。…小林一茶と秋元三左衛門との交友の由来は…
流山市観光協会 歴史、産業…小林一茶より。
小林一茶(1763〜1827)がふるさと信濃の柏原を後に江戸に出たのは、安永六年(1777)の春15歳のときでした。 それ以降10年間、江戸でどのような生活を送っていたのかは、現在の所、定かではありません。
一部の伝えによると、(松戸市)馬橋で油屋を営む俳人大川流砂の家に奉公していた時期もあったと言われています。 当時北総地域には、悠々自適な境地を楽しむ!という、俳人山口素堂の一派である”葛飾派”の俳人が多く、流砂はその一員、一茶も当初は葛飾派に所属していました。 流山の秋元双樹と知り合ったのも、流砂を通じてだったのではないかと、考えられています。
一茶は、利根川すじの布川で回船問屋を営む古田月船、守谷の西林寺住職 鶴老とも親しくなりました。 北総地域は、一茶にとって”第二の故郷”であり、流山の双樹のところには50回以上も来訪したことが知られています。

この秋元三左衛門邸が一茶双樹記念館として流山市に保存公開されております。 
小林一茶の俳句と云えば先ず、誰しも記憶に残る句と思いますが、
       我と来てあそぶ親のない雀
       痩(やせ)蛙まけるな一茶是に有
…では一茶、双樹の親交ぶりを残された俳句から、往時の流山滞在中に残した俳句の幾つかを並べてみます。……
        越後節蔵に聞へて秋の雨
        我植し松も老けり秋の暮
        刀禰川は寝ても見ゆるぞ夏木立
   注)利根川は江戸川の事。幕府文書でも利根川とされていた。 
        炭くだく手の淋しさよかぼそさよ
        夕月や流残りのきりぎりす
双樹との連句からは親交振りが窺がえます。
       翌(あす)は又どこぞの花の人ならん   双樹
       川なら野なら皆小てふ(蝶)也       一茶
文化九年(1812)双樹は病をえて一茶の祈りもむなしく帰らぬ人となった。 
           双樹仏(弔歌)
      折々のなむあみだ仏聞きしりて
               米をねだりしむら雀哉
双樹の葬式のとき詠んだ句。
              悼
      鳴烏(なくからす)こんなしぐれもあらんとて

一茶は翌年には江戸俳壇を引退、故郷信濃国柏原に帰っております。
記念館前から南へすぐにお寺の参道があります。光明院です。秋元双樹の墓と連句碑がある古い落ち着いたお寺です。本堂の裏は標高15m程の独立した丘で樹木に蔽われて神社が在ります。
この丘は赤城山と称し流山の地名起源の伝説地です。
……曰く、建長年間(1249〜56)に上州の赤城山の一部が崩れ当地に流れ着いた。 あるいは洪水のとき上州赤城神社のお札がこの丘に流れてきた。 といずれも流れて来たことで流山の地名起源としたお話しです。
頂上に鎮座する社は赤城神社で赤城祠碑に上記由来の碑文があります。
なお、現在も有名ブランド万上味醂に関しては、大正六年に野田市の醤油醸造各家が合併しキッコーマンの前身野田醤油株式会社創業時、流山からは堀切紋次郎が参加しております。現在は近代的な流山キッコーマン工場として万上味醂醸造所です。

新撰組局長近藤勇の流山での官軍へ投降始末は次回へ …… 次回へつづく… 。……前回へ戻る… 

《江戸川》
(7) 浦安町バーチャル手帳
(6) 懐旧の浦安町
(5) 利根運河 銚子航路蒸気船から筏(いかだ)まで
(4) 流山、近藤勇の生き様
(3) 味醂の街流山と近藤勇、小林一茶
(2) 行徳新河岸と日本橋長渡船
(1) 川という人工導水路と防災安全性は