[歴史] 糞尿譚(3)−6 河川、海洋、船舶
手近なところから始めます。近代の船舶トイレ処理から……現代の航洋船舶などは当然西洋文明から派生したものですから、トイレの方式は海水を利用した水洗式につきるとおもいます。が…その行き先はそのまま海に投棄が始まりです。しかし昨今の環境重視社会の到来から処理方法の変化が顕著になり、船内タンクに貯留し出港後所定の沖合いで粉砕し投棄、或いは貯留タンク内でバクテリア分解無菌化後の沖合い投棄が基本かと思います。法規制が厳しく3,40年前から港湾内や静水域内では処理水や廃水、ゴミの投棄はできません。 更に以前に私の知っている話……先ずはUS NAVYのフリゲート艦では士官などのトイレは普通のフラッシュバルブのある海水水洗、普通乗員のトイレは……U字型の鉄製樋管の上に木製の板便座が乗せてあり樋管は航海、停泊に関わらず四六時中水が流れており、5,6名が並んで使用するシステムでドアーはなしです。…また当時国内主流の木造漁船ですが、100トン程度の鰹鮪船などは船尾の作業用の外縁上に穴が開いておりそれが便所です。現在でも地方の中型漁船など船尾の穴の上に人体を覆う設備がある程度です。また遠洋漁船などの船内便所は海水手動汲み上げ装置の水洗などもありました。
昔の横浜など波止場を思い出しますと埠頭に舫う貨物船など舷側には穴が幾つもあいており水がよく流れ落ちる風景でしたが、各種補機などの冷却水や廃水、当然トイレの排水孔もあったのです。ま、近年の波止場状況は激変し、船客、乗員併せて3300名という大型クルージング客船や横須賀港停泊の空母ジョージワシントンなど艦内にデパート迄ある巨艦には5700名の乗員がおり港湾内の船舶トイレ処理問題も必須の課題であった事は理解できますが、結論として、処理の最終図式は昔と同じく海洋投棄に変化はありません。……
現代の綾瀬川 小菅から花畑方面を望む
江戸時代から戦前昭和の時代まで屎尿の農業還元の主役が河川舟運が果たした役割は大きかったと思います。お江戸の街と近郊農業地帯を結ぶ幹線舟運ルートとして隅田川から鐘淵で綾瀬川に入り(荒川放水路を横断しさらに)南花畑で分岐し花畑運河から中川(古利根川、元荒川)方面や綾瀬川上流の一大農耕地を目指して汚穢舟と呼ばれた下肥舟が集中し現在の南花畑3丁目と綾瀬川の対岸神明1丁目の内匠橋の両岸には江戸時代屈指の河岸が出現し賑わっていたのです。各川筋にも多数の河岸が発達して下肥問屋という糞尿売買の商人が船頭から下肥を買い付けていたのです。 そのお話ですが…江戸時代の商人は上等な屎尿から下等のランクまで一目で分別出来たと云います。即ち、上位から一番は勤番。主に大名屋敷の屎尿。 二番は町肥。江戸の町方の家、長屋のもの。 三番は辻肥。四辻などに農民が設置した便所の屎尿、 四番はお屋敷。これは牢屋敷などで最下等。 どうやら糞尿の出所…食い物の良い所が良質下肥と云うことなのでしょうか。 また、需給による下肥価格の高騰では船頭が川の水で量を増やし”ごまかす”のを指を突っ込み舐めて判断する話もあります。舐めると云う事は農民も同じ事、枯らした下肥を畑に撒くときは水で希釈し舐めて濃淡を判断したと云います。……
最後は東京都の下水道整備時の対処、海洋投棄に移ります。各地で収集した屎尿を積んだトラックが積み替え河岸に到着します。一番目立ったのは中央線水道橋駅近くの都立工芸高校前の神田川河岸です。よく電車の窓から眺めましたが、施設から太いホースを水上の艀につなぎ、積み込んでおりました。各地で屎尿を積み込んだ艀(バージ)は東京港お台場付近で待機する本船(屎尿タンカー)に積み替えますと、いよいよタンカーは東京湾外大島沖で外洋投棄します。紺碧の海洋に投棄された屎尿は、あたかも黄色い海洋マーカーを投下し海を染めたように見えました。当時付近にはUS NAVYが設定した実弾射撃用のC(チャーリー)海面がありました。 ……次へ続く… ……前へ戻る…
《糞尿譚》
(6) 江戸東京リサイクル
(5) 江戸東京リサイクル昭和へ
(4) 東京下水道物語
(3) 河川、海洋、船舶
(2) 西武鉄道、東武鉄道の屎尿輸送 -2016 08 14更新-
(1) 鉄道編