[河川][交通流通] 江戸川(2)−7 行徳新河岸と日本橋長渡船

江戸っ子の成田詣の定番コースは日本橋から渡船(長渡船と呼ぶ)で江戸川の行徳新河岸に上陸、船橋宿を経由して成田街道からお不動様の参詣です。
日本橋を流れる日本橋川の小網町(3丁目)には行徳河岸がありました。今の箱崎ターミナルの下になります。 ここは有名な行徳の焼塩など産品の荷揚げ場所で、下総の本行徳村が寛永9年(1631)に幕府の免許を得て、行徳と日本橋を結ぶ船便を開設し、これが行徳船とか長渡船と呼ばれ成田参詣や鹿島、銚子方面への旅人の利用で賑い、云わば成田街道や木下街道へ入る、渡し舟の役目でした。……
この渡船の航路は小網町から中州へ出て隅田川を横断、小名木川、新川を経て江戸川へ出ると対岸が行徳新河岸です。航程13kmを茶舟に旅人24,5人を乗せ船頭一人で艪を漕ぐのだそうですから、現代人では、とても行徳船の船長は務まらないでしょう。……なに、勤まる! 船外機を付ければ大丈夫。  ちょ、ちょっと、ああた、お江戸の話をしてるんでやんす…… 
) 茶船→高瀬船など大型廻船に対し雑用の小船の種類、行徳船の場合は荷足船(にたりぶね)を使用、これは関東の河川、江戸湾で小荷物類を運ぶ小船で速力がでる。……
ま、話は話として、成田詣での講中の一統がうきうきしている様を考へると、…帰途の精進落しは船橋宿の泊りが人気だったとか。……
そこで、御注意、当時の行徳とは、国府台、市川、八幡、中山、船橋とは地続きで、現在も行政区域は市川市です。 大正8年(1919)に完成した、広大な江戸川放水路(行徳橋〜東京湾)が開削され、現在の陸の孤島の地形となりました。…
     
             
上)笹屋うどん 下)常夜燈 日本橋西河岸成田山講中建立
貞享4年(1687)松尾芭蕉の紀行文”鹿島詣”には芭蕉曾良、宗波一行は隅田川小名木川口にあった”芭蕉庵”の門前から乗船し、小名木川、新川、から江戸川に達する一直線の川筋を経て、行徳新河岸上陸の定番コースだった様子です。 行徳からは芭蕉さん一行は陸路、木下街道を歩き八幡、鎌ヶ谷を通り布佐に出て、再び夜舟で利根川を下り鹿島へ着いております。船中一泊翌日到着と云う事でしょうか。
…… 洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松陰や月は三五や中納言」といひけむ、狂夫のむかしもなつかしっきままに、このあき、鹿島の山の月見んとおもひたつ事あり。……で始る紀行文には、
門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。 ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。 甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、おのおのいただきよそいて、八幡といふ里をすぐれば、鎌ヶ谷の原といふ所、ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、めもはるかにみわたさるる。 筑波山むかふに高く、二峯ならびたてり。かのもろこしに双劔のみねありときこえしは廬山の一隅也。…… 
この”鹿島詣”は月見が目的だったようですが、天候には恵まれず残念な旅だったのかも!、 御一行様の発句の一部。
   月はやし梢は雨を持ちながら  芭蕉(桃青)
   雨に寝て竹起かえるつきみかな 曾良(ソラ)
   月さびし堂の軒端の雨しずく   宗波
……では、現在の行徳とは如何なるところか?、…私には、東京に至近で不思議に残された一画、旧行徳街道界隈はお江戸の遺構が散見され、道筋も昔のままで、歴史探索、散策には貴重な穴場でしたが、その前に、徳川家康公に絡む、行徳の塩、塩の行徳の始末を見てみましょう。……
後北条の時代すでに行徳は塩の産地でしたが、1590年、江戸入府した家康公は小名木川、新川の開削を小名木四郎兵衛に命じ、行徳からの塩の道として完成させた運河です。
しかし江戸中期にお江戸の街は100万都市として世界有数の大都会となり、塩の需要は急増して瀬戸内の下り塩が行徳塩を圧倒してから沈滞は続き、、やがて大正6年の台風による大波浪と高潮が大津波として東京湾奥を襲い行徳塩田も壊滅の憂き目に遇いました。 現在の行徳の地名には「塩焼」など昔の塩田地帯に残りますが、地下鉄東西線開通以後急激に都市化されマンションの街に変化しました。
     

上)後藤神輿店 下)加藤家住宅

「歴史探訪や散策されるお方は、遺構が多い関係で、以下、市川市HPをゆっくりと御参照いただき計画される事をお勧めします。」
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1441000003.html#11市川市HPの完璧すぐれもの案内はこちら……《行徳・南行徳界隈》と云う訳で新市街と背腹の位置に、旧江戸川沿いの旧行徳街道一帯が貴重な歴史遺構として注目される所以です。
江戸川の行徳新河岸跡には長渡船や成田参詣のモニメントとの様に巨大な常夜燈が奉納されております。これは日本橋西河岸の成田山講中が船中の安全を祈願して1812(文化9年)建立したものです。西河岸とは日本橋と一国橋間の南岸ですから裕福な旦那衆の講なのかも。 この常夜燈下、行徳街道には過っての新河岸名物”笹屋うどん”の建物(1854年 安政5年)が保存され江戸時代の河岸情緒の一端を楽しめます。
  《 さあ 船が出ますよと うどんやへ知らせ 》
  《 行徳を下る 小舟に干しうどん 》
  《 音のない滝は 笹屋の門にあり 》
この行徳街道一帯が昔盛った宿場ですから、探訪の核心となります。 家康公が東金に鷹狩り往還に利用した権現道なども残っており、船橋の鷹狩り御殿(現、船橋東照宮)へ入る道でもあります。寺の多い事でも知られる寺町です。  …… 次回へつづく… 。……前回へ戻る… 

《江戸川》
(7) 浦安町バーチャル手帳
(6) 懐旧の浦安町
(5) 利根運河 銚子航路蒸気船から筏(いかだ)まで
(4) 流山、近藤勇の生き様
(3) 味醂の街流山と近藤勇、小林一茶
(2) 行徳新河岸と日本橋長渡船
(1) 川という人工導水路と防災安全性は