[河川][地域][歴史] 江戸舟運(1)ー2 キーストン 取手宿小堀河岸

平将門から一寸目先を換えて、今回は過っての取手井野村小堀河岸に特化してみました。…関東地方の大河川は江戸以来人工的な改修が営々と続き既に自然の流路を保つ川筋は皆無と云えます。利根川東遷事業と呼ばれる江戸時代の可なり興味をそそる大事業が成就して、世界屈指の人口都市大江戸を支えた高瀬舟による舟運物流路が完成しますが、取手の小堀河岸がキーストンとしで機能した重要な存在でした。
なぜか……利根川舟運の本船「高瀬船」の大型船は米穀にして900俵(54トン)積載で船方6人の平底の川船です、標準船は500俵積み4人程度で運航していたのです。また高瀬舟と呼ばれる船は日本各地には幾種類もあり、森鴎外の短編「高瀬舟」は島送りの罪人と奉行所同心が京都高瀬川から大阪湊送りの船中での対話がモチーフでしたが、高瀬川の小さな小舟の名称です、利根川高瀬船とは異質の船体でした。高瀬船とは、その意味合いから水面下の地表(瀬)が高い、即ち浅い河川用船型を指しているのか?、……戻ります、この効率的利根川「高瀬船」が取手宿の小堀艀下河岸(はしげかし)繁栄をもたらしたのです。この河岸(川湊)の特徴は江戸時代”艀艜舟”(はしけひらたぶね)と呼ばれた小型の河川運搬舟(艀、バージ)が多数待機する河岸でした。利根川渇水期には取手の上流から関宿の江戸川分岐点までの水位が下がり積荷した高瀬船が航行不能になります、更に江戸川は関宿分流点から野田付近までがこの状態になります。そこで高瀬船は取手小堀河岸で積荷を艀に分載して喫水を浅くして何とか乗り切ったのです。

この二箇所の共通点は、利根川では栗橋から取手に至る開削工事部分(赤堀川)は利根川東遷事業の仕上げで利根川常陸川に接続し銚子に流す人工開削部分に当ります。更に江戸川では利根川を関宿で分流し旧利根川流路に野田で合流させて、後に江戸川と呼ばれた新しい河川を成立させる為、…関宿から野田の間の人工開削部分に当ります。……共に高きより低きに流れる自然河川の摂理に逆らう強制人工流路で土砂が常に堆積する条件が存在しているのでしょう。 この土砂堆積は更に悪化します、天明3年(1783)の浅間山大噴火による利根川流域へ火山灰の大流入は最悪な河床隆起で高瀬船運航をしばしば不可能にする事態が発生、舟運物流は中断し、その対応策として利根川と江戸川間を陸路の中継ルートで結びます。(1)木下河岸から行徳河岸へ、(2)布佐河岸から松戸河岸、(3)布施河岸から流山河岸の各ルートを馬の背で運び、再び高瀬船に積み換え江戸に回漕していたのです。……


水戸街道の取手総鎮守八坂神社 神社横の道が古道「佐倉みち」利根川土手で行止まり、河川敷対岸の取手市飛び地の「小堀地区」へ通じていた。

では取手の小堀河岸の場所とは……現在の旧水戸街道の取手総鎮守八坂神社の脇の道(実在)は古道の”佐倉みち”(千葉県佐倉市へ)です、この道は地続きで小堀河岸に至ります。…古い取手宿はこの道の途中(現、利根川河川敷)に街並みがありました。即ち利根川流路は大正9年の河川改修まで取手の南でU字状に湾曲しその先端が小堀河岸であり、利根川改修で対岸に残され取手市の飛び地が即ち小堀地区です。現在では過疎の「オッポリ」的状態で、…多数の高瀬船や艀が舫い、蔵が建並び回漕問屋、船主や多くの労務者での賑いは、今は昔の夢…河岸の残滓は全く残されおりません。…なお寛文6年(1666)の利根川の大洪水で壊滅した旧取手宿は、現在の旧水戸街道筋に移転したのです。先の古道「佐倉みち」は小堀河岸から旧利根川流路(現、古利根沼)を”旧小堀の渡し”で対岸我孫子へ、佐倉に続いていました。
注)現在の小堀地区は全くの過疎で繁栄時代の遺構、地形は全く存在せず探訪の対象にはなりません。ご注意ください。…
小堀河岸壊滅のプロローグへ……利根川舟運は先ず銚子から江戸へ本船の直行、河床隆起や渇水時には小船に積み替える、又は地上中継ルートの利用などと可なり問題点がありましたが、反面これを取手小堀艀下河岸は街の繁栄に転化して来ました。…やがて……、
   ……先へつづく

《江戸舟運》
(2) 文明開化の”あだ花”外輪蒸気船と利根運河
(1)キーストン 取手宿小堀河岸