[地域][歴史] 平将門(3)−5取手宿本陣、高瀬舟河岸(川湊)

長禅寺境内を辞し山門石段下公園の立札には幕末から昭和にかけて名を残した人達で取手に縁の文人などが記してあります。当地に寄留したり利根川や取手界隈に関る作品を残した人々です。小川芋銭、菊池幽芳、正岡子規高村光太郎、平塚らいちょう、坂口安吾……など、更に時代を遡って、小林一茶は格別のお人です。……本多重次と云うお方は『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』の手紙を書いた人とされておりました。この方は徳川家康の側近武将の本多重次です。家康公への忠誠心篤いばかりに、小田原北条征伐後、豊臣秀吉に対しあからさまな不快事を与え、”無礼者本多重次は家臣にあらず放逐せよ”との秀吉の命令で家康は…結果、現在の茨城県取手市井野(下総国相馬郡井野)に蟄居させ、文禄5年(1596年)7月16日、重次は68歳で死去しました。その”本多重次墳墓”が街中に独立した茨城県指定史跡として茨城県取手市台宿2−3167にあります。この現代でも手紙の参考例文の定番を書いた家康公側近武将が取手市由縁の方だったのです。……


取手宿本陣

長禅寺山門下から旧水戸街道の取手宿に移動いたしますが、下総に散在する将門遺構伝説は目印程度、そこで、取手界隈の民俗的な言伝えをご紹介いたします。……平将門取手生誕地説の取手市編纂委員の方が居られるようです。…「平将門の母は県(あがた)犬養春枝の娘で、春枝は取手の寺田本郷あたりに住んでいた豪族で、将門は取手で生まれ、取手で育った」。…崙書房出版書から引用……と言うお話。 更に「キュウリを食べない」「成田不動尊には参詣しない」などもあります。
平将門の家紋”九曜紋”を見ますとキュウリの切り口と似ている事からキュウリを丸ごと食べない。……また成田山新勝寺、その縁起とは新皇(天皇に対して)を名乗る将門”天慶の乱”(将門の乱)で朱雀天皇不動明王御尊像を奉安した僧を下総国公津ケ原(成田)に遣わせ朝敵降伏の護摩祈祷をさせて将門の乱を鎮撫成就した事になっておりますが、その不動明王像をその地に残した庵が、即ち成田不動尊の前身とされ、取手、守谷、岩井、石下一帯では成田山詣でをすれば郷土の英雄”平将門”を辱め、罰が当ると恐れたと云うお話です。……

平将門家紋 九曜紋 
さて、旧水戸街道に出ると江戸以来の酒蔵の店舗などが在ります、水戸方向へ直ぐに筑波銀行取手支店の先路地奥に取手宿本陣があり、ほぼ往時の姿を留めた貴重な建物です。邸内には水戸藩9代藩主徳川斉昭の句碑なども残されております。……では、大名殿様を迎える本陣主は重大な粗相をすれば首が飛ぶ役回りなのに祝儀は雀の涙程度、また宿場近在農民は「助郷」と称する無料使役や馬を負担し武士の特権に辟易していました。…寛政元年(1789)取手宿を通行した大名、藩士の使用した「助郷」合計の記録は…人足1209人、馬676頭。……この「助郷」の制度は各地の街道筋の農民を苦しめ代官の指図で名主や宿場問屋から過重な割り当てに農民騒動が可なり発生しているのです。…

取手宿由来の酒蔵但し、本陣主の名主などには晴れ舞台が用意されております。水戸の殿様斉昭のお召船の舳先に裃、帯刀の姿で颯爽と立つ「舳先乗り」の水先案内と、上陸した殿様の先を歩き、土下座平伏する人々の群れる街道筋から本陣へと御案内する名誉があり、近郷の人々に面目をたてる事が出来ました。。…(注)本陣公開日は金、土、日 取手市HP参照

次は取手宿の舟運河岸に移ります。……徳川幕府による利根川東遷事業の完成でお江戸の物流大動脈となり仙台石巻から海路銚子湊へ、廻米産品を高瀬舟に積替えて利根川、江戸川経由で江戸に達する利根川舟運の重要河岸(川湊)が取手宿小堀河岸でした。小堀地区とは前回記述の如く、現在は取手市飛び地で対岸の我孫子市側の辺鄙な……「オッポリ」的な一帯ですが、往時の河岸として繁栄の話が存在いたします。……先へつづく… ……前へ戻る

平将門(5) 相馬中村藩と相馬野馬追い、足尾銅山
(4) 江戸東京の将門伝説
(3) 取手宿本陣、高瀬舟河岸(川湊)
(2) 平将門と取手市風土記
(1) ゆかりの坂東、取手と岩井探訪