昔の荒川探索行(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市
荒川と綾瀬川は別の川ではありません、但し中世、近代初期のお話ですが、現代に至る大雑把なお話から初めます。………現代の綾瀬川の起点は元荒川が桶川市の首都圏中央道と交差する下流の桶川市小針領家付近ですが元荒川とは断絶しております。……が、中世期には荒川(元荒川)がこの辺りから現在の綾瀬川流路に流れ込んでいたのです。既に御存知の如く当時の概念では一本の川筋として呼称しませんので、当時の荒川本流はここからは綾瀬川となり埼玉県八潮市附近で利根川(中川)と合流しますが、この流域は元荒川より更に低湿地で、流れは蛇行、滞水、流路変更を勝手に繰り返す「あやし(怪し)の川」が通称だったようです。 江戸期に入り綾瀬川と名称が転化、理由は………徳川家康公が江戸入府し治水に専念、関東代官に任じられた備前守「伊奈忠次」により、上記桶川市小針領家附近に通称「備前堤」を築き荒川(綾瀬川)を締め切り、新流路として星川に繋ぎ現在の元荒川流路となったのです。
綾瀬川札場河岸跡 草加松原と綾瀬川
一方綾瀬川は源流を断たれますが、流路地域は一転して治水効果から、お金の成る草の大穀倉地帯に転化させたのです。以後は農民による用水排水路とし、雑水を集めて利用され、”あやしの川”が」綾瀬川に転化したという話があります。………と、云う事でここでは穀倉地帯を省略して下流部の草加市(宿)附近に話題を移します。………
日光街道草加宿は芭蕉さんの”奥の細道”の冒頭に……奥羽長途(ちょうど)の行脚、只かりそめ
に思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生(もしいき)て帰らばと定めなき頼みの末をかけ、その日漸(ようよう)草加と云宿にたどり着にけり………芭蕉さんの時代は元禄2年(1689)ですが、草加宿は寛永7年(1630年)に開設されていました。……草加市名勝の松原を配し直線化した現在の綾瀬川は何時頃開削されたのか、その理由と
は……お定まりの大湾曲流路部分の締め切り、直線化です、時期は草加宿開設後の天和3年(1683年)と云う記事がありました。………その以前、中世以来の綾瀬川川筋が草加で大湾曲した流路跡が市内に残り、現在も古綾瀬川として探索が可能なのです。
古綾瀬川合流部の大水門 工業団地地域の古綾瀬川 では、……古綾瀬川の追跡……探索ツール定番のGoogle mapを参照ください。……東武スカイツリー線の新田駅の東、綾瀬川左岸越谷市蒲生に藤助河岸跡と蒲生一里塚があります、綾瀬川畔の道が昔の日光街道でした。そこの橋畔上流の傍ら附近が古綾瀬川の流入地点と断定出来ます。地図上で僅かな水路を追跡して頂きます、住宅街の排水溝即ちドブの様なものでも追跡が可能ですこの一帯は完全に廃川化されておりますが、草加市八幡町の外周沿いに逆U字状に痕跡流路が残り葛西用水附近からUターンし次の目標は県立草加高校です、直ぐ南には東京外郭道の巨大高架道を横切ります……草加市八幡町を一周してました、……ここで注意、外郭道と併設する綾瀬川放水路が綾瀬川本流から八潮市中川に達しておりますが、これと交差合流しても流路は明確に更に南下します。……この綾瀬川放水路は低地帯の草加市水害対策として綾瀬川過剰水を中川に落す水路です。……後は可なり明確な水路として確認できますが、草加市の財源の一つ工業団地を包み込む様に流れ、最後は再び綾瀬川左岸に大水門を介して流入しております。丁度草加松原の始る東京寄り右岸に芭蕉像や札場河岸の在る、対岸下流になります。………古綾瀬川探索をした私のイメージは源流の無い短い廃川跡は流れない滞留水でした。更に工業団地周辺の古綾瀬川は広大直線化(団地造成時の開削か?)し可なりの容量がある河川に変貌し、低湿地帯である工業団地一帯の排水用調節機能の巨大溝と断定しました。即ちで綾瀬川とは巨大水門で隔絶できる仕組みでした。………
汚わい舟(葛西舟)葛飾郷土博物館所蔵
綾瀬川と云えば、…江戸時代から昭和初期にかけて、生活と密着した話がありました。この川は低湿地帯の落差の少ない川で、くねくねと湾曲し水が滞留する特徴があり、洪水誘発のリスクの反面、舟運航路としては適して河岸が蓮田市附近まで存在し、草加宿にも札場河岸と藤助河岸が遺構跡として保存されております。では舟の積荷は?……主として穀倉地帯を控えた農民の用に特化されて、収穫物の江戸への搬送と江戸からは必需品の搬入です。…必需品とは米の成る草の肥料、下肥こと人糞です。江戸の街で買い付けた糞尿を運搬する舟が集中した川が綾瀬川名物「汚わい舟」でした。
………人糞が臭い汚いなどと勿体ない事を云うのは現代人、江戸時代は大切なお宝です、長屋の大家さんは店子の糞尿を売って可なりの収入を得ており、こんな話もあります……長屋の住人が大家さんに小言を云われて毒づきます……冗談じゃねえや、もう明日から長屋で糞(くそ)なんかしてやらねぇ〜…?… また…「店中の尻で大家は餅をつき」…
江戸長屋 後架(便所)深川江戸資料館
江戸時代に草加宿の下流、現在の南花畑三丁目附近の内匠橋両岸には大きな河岸の榎戸と呼ぶ街があり賑わい、下肥問屋などもありました。…江戸から集めた屎尿を船頭から買い取るのです、……が、…屎尿相場の高い時など、船頭が川水で薄め増量して持ち込むので、眼の肥えた番頭さんは屎尿に指を突っ込み「舐めて」見破ったと云います。又糞尿の出処で値段も違います、一番上等は”勤番”(大名屋敷)、並みは”町家”、最下等は”お屋敷”(牢屋敷など)ですが、簡単に見分けたそうです。………
なお、東京の足立区に綾瀬の地名がありますが、綾瀬川からの地名で明治22年(1889)五兵衛新田と伊藤谷村を合併して綾瀬村が発足しております。…綾瀬川最下流部分の桁川締め切りと、開削直線新水路の小菅軽由の隅田川鐘ヶ淵までの話は、疲れたから省略します。悪しからず……
……おわり…
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《昔の荒川探索行》
(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市
(10)元荒川由縁の街 越谷市
(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」
(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態
(7)大地に刻まれた古隅田川自然堤防を歩く
(6)荒川を支流にした古隅田川(隅田川)…
(5)岩槻市元荒川と謎の古隅田川…
(4)元荒川が大河の残滓を残す流域…
(3)元荒川を下る…
(2)荒川西遷(瀬替へ)の要 熊谷市…
(1)人工河川荒川の成立(西遷事業)…