[歴史][河川] 昔の荒川探索行(1)人工河川荒川の成立(荒川西遷事業) 

陽春の輝きが戻ってまいりました。……使い古した身体のせいか、とにかく今年の冬の寒さには泣かされ、文明病か? 寒冷うつ病…寒いと眠くなり、ヤル気が出ない。…と云う事でブログも約1ケ月休業しました。…早い話、そう云うのが認知症かもと、精神科を受診し女の女医さんからテストの結果は正常との太鼓判? を頂きました。が、…明日から先の事は? 保障出来ないと宣言されています。……

さてと、春本番で桜の花が満開を迎えると江戸時代からの墨田堤の風情が気になります。……つい最近までは、この隅田川は荒川の本流だったのですが昭和40年(1965)政令により赤羽岩淵から葛西までの荒川放水路に本流が移り、隅田川赤羽岩淵水門を始流とする全長23.5kmの荒川分流となっております。既にブログ『古利根川の追跡』で解明いたしましたが、その昔は坂東(関東)の大河川はすべて埼玉県を中心とする広大なお盆状低湿地帯に流れ込み千路に乱れた流れが洪水を繰り返しておりました。
荒川(元荒川)も文字道理の荒ぶる川としてこの地域を流れ利根川古利根川)と絡み合いながら最後は合流してお江戸の大川(隅田川)に流れ込んでいたのが徳川時代初期の話ですphoto…さいたま市岩槻区の元荒川末田須賀農業用取水堰と風景


昔は”水を治めるもの国を治める”の諺があり、将に徳川家康公の治水対策が教訓を証明している事に気付きます。……既に関東八州幕府領の代官 伊奈忠治は寛永6年(1629)に熊谷市久下附近で荒川を堰き止め新流路を開削して現在の荒川流路に切り替えたのです。…理由は簡単、平坦広大な低湿地帯の治水はお宝の成る木、稲の大穀倉地帯が成立できます。締め切られた後の旧荒川本流跡は元荒川と呼ばれる農業用水路として利用しました。…全く、旧利根川本流跡(古利根川など)とほぼ同じ用途ですが、現在の姿は旧利根川は締め切り地点から会の川、葛西用水古利根川などと一本の川としては呼ばれておりませんし、直線化したコンクリート護岸で近代化した農業用水路の姿に変化し下流古利根川流域で初めて江戸時代の流れと風景が残る場所が多数存在します。
photo…末田須賀取水堰からの潅がい穀倉地帯
一方、旧荒川本流は締め切り地点の熊谷市久下から元荒川と一本の名前で現在の中川(埼玉県吉川市)合流点まで一貫しており、近代化コンクリート護岸は少ない昔の姿を保っています。
では、……荒川西遷事業成立の合理的条件を解明します。………ここからはWeb地図のgoogle mapを基本的に利用して話を進めますが、悪しからず御願いいたします。……
なぜ?…熊谷市久下で荒川本流を堰き止め新水路の開削付け替えをした理由ですが、……地図で確認いたしますと…熊谷駅から大宮駅に至るJR高崎線の路線は大宮台地へつながり、北東側で埼玉低湿地帯を区切り、大宮台地は西南側で武蔵台地に接しております……その武蔵台地から流れ込む河川に和田吉野川と入間川流路が武蔵台地と大宮台地を区切っているのです。…即ち、荒川西遷とはこの武蔵台地から流出する川筋を利用して開削接続を繰り返し、結果は入間川流路を荒川の下流として利用して江戸から海へ放流したもので、広大な埼玉低湿地(穀倉地帯)を荒川氾濫から守る為の流路隔絶に成功したのです。……往時の隅田川とは荒川西遷(寛永6年(1629))以前の入間川下流部分をお江戸の人達は大川とか隅田川と呼んでいた事になります。 
徳川時代初期に既に治水、河川、地形、土木など近代的知識を備えた初代伊奈忠次の一族が手掛けた関東地域の河川改修事業は現在の利根川荒川水系の基本的骨格を既に完成し、江戸から東京へ発展、世界屈指の大都市東京出現の礎でした。……次回へ続く

      《昔の荒川探索行》
(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市
(10)元荒川由縁の街 越谷市
(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」
(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態
(7)大地に刻まれた古隅田川自然堤防を歩く
(6)荒川を支流にした古隅田川(隅田川)
(5)岩槻市元荒川と謎の古隅田川
(4)元荒川が大河の残滓を残す流域
(3)元荒川を下る
(2)荒川西遷(瀬替へ)の要 熊谷市
(1)人工河川荒川の成立(西遷事業)