昔の荒川探索行(10)元荒川由縁の街 越谷市

前回の大戸地区大六天神社下流の末田須賀農業用取水堰は元荒川随一の規模の堰で、元荒川最下流の取水堰になります。左右両岸に展開する大穀倉地帯への必須の給水源といえます。又江戸時代には唯一の大量運搬手段として収穫産米を運び出す舟運の河岸が在ったそうです。……と云う事で橋の飾りの芸者さんが居た門前集落大戸が賑わったと推測しました。

元荒川…宮内庁越谷鴨場附近
また、今迄の話の結果の確認………近世初期までは既にこの辺りは隅田川(古隅田川)と名前を換えた利根川下流部分と為るはずですが……埼玉の「古隅田川」と、下流の足立、葛飾境界線を流れていた東京「古隅田川」は理屈として利根川流路の一本の川と断定したにすぎずません。………江戸時代から明治にかけても川の名前程その土地土地で勝手に呼んでおり、例えば利根川東遷(銚子へ)後も江戸幕府では江戸川を利根川とか新利根川と書かれた文書が残っているのです、江戸川と定着した時期さえ定かでありません。……因みに利根川が銚子へ流れる様になって、150年も過ぎた江戸川流山河岸の味醂醸造家、秋元家に逗留中の小林一茶の句に「刀禰川は寝ても見ゆるぞ夏木立」があります。…と云う事で古隅田川の呼称解釈は断定的なものではありません。悪しからず……


逆川…元荒川を伏流で対岸御殿町へ…開削水路で瓦曽根溜へ(昭和42年改修)では、元荒川の追跡になります……末田須賀堰下から間もなく越谷市に元荒川は流れますが、将に自由奔放、物理に従い高きより低きに流れ込むクネクネと湾曲した流れ、滞水する氾濫原など多数存在しておりましたが、江戸時代に湾曲部を切り離し、氾濫原には築堤し田地造成など、その努力と結果が越谷宿から越谷市への変貌であった事が元荒川探索で理解出来ました。……特殊な地図ですが、越谷市附近の「地形分類図」には湾曲する荒川流路跡など明確に読み取れます……
それでは、湾曲部を簡単に指摘しますと。……(1)越谷市南荻島の元荒川左岸から東武伊勢崎線せんげん台駅南の順天堂越谷病院附近、更に大袋駅を含む越谷市の袋山地区にかけて大湾曲した流路と、……(2)下流の更に先、左岸「天嶽寺」、「久伊豆神社」手前から北へ大湾曲して花田地区を回周して東越谷一丁目附近旧瓦曽根溜北端附近で合流。……江戸時代新流路開削で切り離しています。
……戻りまして、昔の低湿河川敷(氾濫原)跡は……(1)国道4号線(越谷バイパス)南の元荒川左岸には宮内庁の越谷鴨御猟場、越谷市の梅林や公園が森林地帯……(2)その下流湾曲部の右岸文教大学一帯です。この右岸は既に江戸時代には農民の築堤が行われ堤防上には巨木が茂っております。


しらこばと橋附近瓦曽根溜と背割堤右が元荒川 越谷市庁舎群と瓦曽根溜(冬季)

………水の流れは東武電車鉄橋、旧日光街道、旧国道4号線橋を下ると、先ほどの左岸天嶽寺手前まで参りました、右岸は徳川家康公の鷹狩り御殿の在った場所、御殿町の町名が残りますが、建物は明暦大火で焼失した江戸城二の丸に移されました。……さて、さて、その左岸には「逆川」が流れ込んでいました。江戸寛永6年の熊谷での荒川締め切り西遷事業で流源を失った元荒川は用水不足で悩まされますが、窮余の策として古利根川松伏溜から越谷大沢「元荒川」までの水路開削し瓦曽根溜への流水を確保したのです。
ここで問題…なぜ「逆川」と云うのか?……本来越谷「瓦曽根溜」の水源は元荒川です、溜近辺では水位が上昇し支流は用水取水が目的で貯水の流出ですが、「逆川」は瓦曽根溜へ流入と云う逆さの支流でした。……その理由とは……約20年程前に私が目撃したメカニズムは「逆川流入地点の元荒川直ぐ下流に簡単なコンクリート堰が残されており、逆川逆止堰と云うもので、……即ち古利根川松伏溜が満水の時は元荒川瓦曽根溜も満水で更なる流入は不要迷惑です、その為に逆止堰で元荒川の水位を上げ松伏溜水位とイーブンとすれば流入は防げます。
現況は逆止堰は撤去され、その跡が人道橋の宮前橋でしょう。ここから下流にかけては大激変した場所で主役は元荒川の瓦曽根溜です。………日光街道越谷宿の”成れの果て”越谷市ですが、実は埼玉県東部の雄、人口5位とインフラなどから財力ある自治体と思われます。その市庁が旧日光街道の東に位置する瓦曽根溜に庁舎を連ねて風光明媚な環境にありますが、元を正せば元荒川瓦曽根溜を改修して建てられ、昭和42年に完成した元荒川と瓦曽根溜の分離によるもので、現在は背割堤により元荒川と分離した「瓦曽根溜」は古利根川松伏溜、逆川、瓦曽根溜、東京葛西用水へ……その源流は埼玉県行田市利根大堰での取水から一連の流れが、要するに葛西用水の総称なのです。
  

越谷レイクタウンの大相模調節池
越谷市は元荒川と縁故の街ですが、更に越谷市の目玉的なレイクタウンがあります。日本一のSCイオンレイクタウンとレイクこと大相模調節池がある新興開発地が発展段階にありますが、ここも元荒川と切れない御縁です?……元荒川の南に位置する当地は当然の低湿地で以前の洪水などでは1mにも及ぶ出水に見舞われまました、当然元荒川の水位上昇から排水能力も失われる地域です、対策として巨大な大相模調節池の掘削で元荒川過剰水の貯留池が、お化粧すればモダンなレイクとして環境整備の主役を努めております。…………
昔からの因縁の低湿地でしたが、逆に元荒川をバネにして現代の発展に結びつけた姿が越谷市と云えるのでしょう。更にアクセスが充実出来れば広大な地域が残されている様に見えます。……なお、宮内庁越谷鴨場や逆川、市庁舎前の瓦曽根溜、背割提、元荒川の状態は、定番ツールのGoogle mapの航空写真で俯瞰を御願いいたします。……元荒川の流れは越谷外れで中川に合流して終りです。
……次回へつづく
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《昔の荒川探索行》
(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市
(10)元荒川由縁の街 越谷市
(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」
(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態
(7)大地に刻まれた古隅田川自然堤防を歩く
(6)荒川を支流にした古隅田川(隅田川)
(5)岩槻市元荒川と謎の古隅田川
(4)元荒川が大河の残滓を残す流域
(3)元荒川を下る
(2)荒川西遷(瀬替へ)の要 熊谷市
(1)人工河川荒川の成立(西遷事業)