[地域][歴史]  今は昔、お江戸の繁華街”両国”

「それつけ、やれつけ」とか「銀猫、金猫」で有名なお江戸の繁華街東両国はいささか危い盛り場でした。両国花火、回向院境内に始った相撲の街でもあり、また、鉄道好きの人には東武鉄道が明治37年には始発駅両国、亀戸間は総武鉄道に乗り入れて現在の東武亀戸線経由、北関東各地に展開していたのです。…私の両国駅の記憶では昭和20年代まで国鉄総武本線銚子行き、外房線安房鴨川と内房線の北条館山行き旅客蒸気機関車の始発駅でした。昭和15年頃の木造客車は3等車は赤線、2等車は青線の帯で区別があり私にとっては少年時代のいささか懐かしき場所であります。当時の駅舎と出発ホームは現存。
上)蒸気機関車時代の始発駅両国駅舎シンメトリーでないのが珍しい建築物。下)両国回向院境内供養塔群。
     
            
さらに、歌舞伎フアンには忠臣蔵討ち入りの舞台本所松阪町吉良邸跡とか、お嬢吉三の名ぜりふ「月もおぼろに白魚の、かがりもかすむ春の空〜」のシーン、隅田川百本杭なども両国(両国橋両岸)です。その他大川の垢離場(こりば)や柳橋の芸者が泳ぎに来た水練場など両国の話は切りがありませんが、後ほどにして、江戸東京の大災害、振袖火事、関東大震災東京大空襲のメモリアルの一面から話しを始めます。……
先ず江戸期にさかのぼり両国回向院の出自から。
明暦三年(1657)正月十八日本郷丸山の本妙寺から出火、二十日にかけて江戸の街と江戸城天守閣を含む御殿の大半を焼き尽くした明暦の大火”振袖火事”の際、小伝馬町牢屋敷から避難の為、保釈された囚人の一団が浅草方面を目指し浅草御門へ殺到します、これに驚いた番人が手違いから御門を閉鎖しましたので火勢に追われた大群衆が逃げ場を失い一斉に隅田河畔へと向かい次々と焼死、溺死で犠牲者数万人の大惨事になりました。
幕府はこの犠牲者を隅田川東岸の幕府用地に大穴を堀り埋葬し無縁塚をつくり、この塚の上に供養の寺を建立します、これが現在の両国回向院の縁起です。…
それでは京葉道路に面したモダンな山門から現代両国回向院をお参りいたします。 なにぶん明暦大火の犠牲者数万人を埋葬した塚の上にあり都市災害を常に語りかけていた尊いお寺さんですが、現代風のお堂など綺麗な境内に変わり一画に集約された江戸以来の災害、水難、水子、刑死などあらゆる無縁の供養塔の林立から、お寺建立の趣旨由来を知る事が出来ます。 境内には詳しい案内板が用意され、江戸時代の心当たりの人の墓など見つかる事でしょう。中でも 義賊?鼠小僧の墓は芝居や草双紙の虚像が一人歩きする大らかなもので明治の時代にお世話になった歌舞伎役者が建立したものです。 
それでは次が東京都慰霊堂です。…明治維新を経て現代に入ると関東大震災が大正十二年(1923)に発生して今の両国駅北側、旧幕府御竹蔵跡が明治維新後、陸軍被服廠となり更に移転した広大な空き地に避難民三万八千人が逃げ込みましたが迫り来る火炎が持ち出した家財道具などに次々類焼して人々は空き地で全滅した場所になります。 この悲劇の跡地には当初東京市震災記念堂が納骨堂と共に建立され、現在は更にの東京都慰霊堂と改名して東京大空襲の犠牲者をも併せて十数万人が納骨安置されております。…敷地内には関東大震災の都復興記念館もあり、大震災の被害詳細資料を公開して状況の理解に役立てております。
この両国は江戸東京の三大災害のメモリアルタウンなのです。…
ここからは一変して江戸庶民のしたたかで愉快な生活ぶりを見てみます。…
この両国は相撲興行が年に二回、いつでもお祭りの様に見世物が溢れ、金銀にそれぞれ彩色した招き猫を飾る金猫、銀猫と呼ばれるいかがわしい店、江戸最初の象の見世物、夜鷹は云うに及ばず回向院門前、東両国は究極の江戸庶民歓楽郷でありました。 両国橋東詰の東両国の実態……
”江戸から東京へ”本所。矢田挿雲著  中公文庫より
……東両国の空き地は、現在より少し狭かったが、しかしその辺には、垢離場の芝居を初めとし、ヤレツケ、鳥娘、阿蘭陀眼鏡(オランダメガネ)、蛇使い、籠脱け、講釈場、寄席のごとき、いわゆる引っ張りの見世物を中心とせる小屋掛けが軒を並べ、講釈場のそばには、一銭床という理髪店が数軒散点、今日の様子とはよほど違っていた。
垢離場なる名称は、当時職人仲間に、大山参りの講ができていて、そのうち初登山の者だけが、水垢離をとり、身体を浄めてから、出発する事になっていたためである。……その他見世物は今日ならばとうてい警視庁が許さないものばかりで、吉原の花魁が裲襠(しかけ)を着て、いやに向こう向きになったような姿を看板に出して、好奇心を挑発したものである。木戸銭が、小銭の八文くらいであったところから、「ヤレツケ、ソレツケ、上見て、下見て、八文」という囃し言葉が行われた。……

注)裲襠 →長方形の錦の中央にある穴に頭をいれ胸部と背部に当てて着る貫頭衣。
なお昔の回向院門前や入り口は境内の西側、隅田川に向いており、両国橋も現在より下流に架かっていたのです。
落語好きには御存知”大山詣で”の噺もある事ですから、両国垢離場の様子を……
合本 東京落語地図 佐藤光房 朝日文庫
……大山は神奈川県伊勢原市丹沢山塊の東端にあり、標高1253メートル。別名を雨降山。山頂に大山阿夫利神社、中腹に下社がある。江戸中期、商売繁盛とバクチに御利益があるというので、江戸っ子の講社連中が白衣振鈴の姿でお参りした。明治まで、下社から上は女人禁制だった、……で、多くは男だけでお参りして、帰りに宿場女郎を買って遊ぶのが本当の目的だった。……山へ行く前に一週間、両国の垢離場で水垢離をとり、汚れを落とした。垢離場は両国橋東詰めのすぐ下流にあり、岸に階段がついていて、川の底には石が敷いてあった。  
丸裸の男女が胸のあたりまで水につかり、「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子………」などと唱えながら屈伸運動をし、……夏の江ノ島海岸みたいな賑わいで、「さんげさんげ」の声は両国橋の上まで聞こえたものだという。この水行は大山詣りだけでなく、病気平癒や大願成就などの祈願にも行われた。

その後明治になるとこの場所は水練場になった様子です、永井荷風の随筆”向島”には。
……その頃、両国の川下には葭簀張(よしずばり)の水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑やかなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺りの水練場で初めて泳ぎを教えられたのであった。……