[寺社][地域] 江戸六地蔵 (3)ー6 深川霊巌寺 清澄白河界隈と紀伊国屋文左衛門(一)

江東区白河一丁目、広大な霊巌寺境内の中程に鎮座される地蔵菩薩銅像は第五番目、享保2年建立(1802)です。 街道筋は水戸街道とされておりますが? 今回は最初から一寸つまづきです…、えーと、水戸街道はお江戸日本橋から奥州、日光街道とおなじ道を浅草、千住大橋千住宿問屋場の先まで同一の道で、ここから東に分岐したのが水戸街道(浜街道)と覚えていました。…建立者の地蔵坊正元さんは深川の住人ですが、当地界隈から水戸街道に入るアプローチの道と云う事なのでしょうか?、……

話しを進めます。…霊巌寺はお江戸以来の巨刹の部類かとおもいます。特に楽翁こと松平定信墓所が境内にあります。…11代徳川家斉の将軍補佐、老中首座、陸奥白河藩第3代藩主、八代将軍吉宗の孫にあたります。その他に近江膳所藩主本多氏、伊予今治藩主松平氏などの塋域がありますが、かなり整理されている様です。 また江戸時代の荼毘所(火葬場)が境内に在った寺と記され、江戸の主な荼毘所(だびしょ)、七箇所の詳細とは●深川霊巌寺  明治6年廃止。 ●千住小塚原火葬場 明治6年廃止のち東京博善社町屋斎場に移転。  ●代々木火葬場 現在の東京博善社代々幡斎場。 ●上落合法界寺 現在の東京博善社落合斎場。 ●桐ケ谷霊源寺 現在の東京博善社桐ヶ谷斎場。 ●砂村阿弥陀堂 東京博善社旧砂町斎場 昭和40年廃止。●芝増上寺下屋敷(品川区上大崎一丁目)明治9年廃止但し現在も増上寺子院が多数存在する。 ……江戸以来の荼毘所(火葬場)が今でも東京には幾つも存在する事が分ります。 
松平定信は隠居後風光明媚な海岸を将軍から賜わり、下屋敷「俗恩園」と命名し場所は現在の築地中央卸売市場構内です。 この人は幕政改革など色々ありますが、話を飛しまして明治の帝国海軍省発祥の地が同じ市場内の尾張藩邸跡で高々と海軍郷(大臣)旗がはためいた場所が定信の「俗恩園」の築山跡で”旗山”と呼ばれた由来です。海軍郷には勝安芳(海舟)や榎本武揚の名が見えます。 
では霊巌寺の由来……現在の中央区新川に霊巌島交差点があります。この一帯は昭和46年までは霊巌島町でした。以後新川となります。 江戸初期の寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人がこの埋立地霊巌寺を建立したのがお寺の始りであり中央区の霊巌島の由来です。 その後、明暦の大火(1657年)で伽藍が焼失、現在地深川白河に再建した経緯が深川霊巌寺です。


photo…都名勝 清澄庭園
また、この界隈は深川の中心地でもありますが、第二次大戦の東京大空襲関東大震災の洗礼を受け江戸以来の木造建築物はほぼ皆無ですが。身近な歴史的遺構は多数存在いたします。 今回もロケーションはWEB地図などで確認を御願いします。…隅田川清洲橋上流左岸を一直線で東西に走る水路(運河)が有名な小名木川です、この川の両岸に分れて松尾芭蕉紀伊国屋文左衛門岩崎弥太郎など私達に身近な人物の遺構が展開して、やはりお江戸下町らしい場所です。最初は紀文こと紀伊国屋文左衛門から…みかん船”で御存知、の江戸時代豪商と云われますが、江戸戯作者の手になった針小棒大な噂の人物像とされる話もあり、実態は分りませんので、その辺はよろしく御願いいたします。……まず東京屈指の名庭園とされる現在の東京都指定名勝”清澄庭園”ですが元禄期(1688〜)に紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられますが、記録に残る資料としては享保年間(1716〜)には下総関宿藩主(千葉県野田市関宿町)・久世氏の下屋敷として江戸切絵図に明確に記載されており、明治に入り荒廃したこの地を三菱財閥岩崎弥太郎が購入し1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成されます。 その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈したのが現在の清澄庭園で先の東京大空襲でも破壊されますが、東京都の手で名園が復活しており、特に逸品は日本全国の名石、巨石の収集が散りばめられております。
霊巌寺入口前の道を南へ一本目左折で支院”成等院”の道路端に昭和三十八年建立 ”紀伊国屋文左衛門の碑” と刻した豪勢巨大な自然石があり、自民党政治家の野村吉三郎書と大きく記され、その裏側にボロボロの小さな墓石が紀文の墓と云われ関東大震災東京大空襲の度重なる火炎に焙られた劣化しており、大正時代に書かれた矢田挿雲の著書”江戸から東京へ”によると紀文の法名”帰性融相および俗名”文左衛門”と左側面に刻されていると記してあります。


photo…紀文墓、左奥の小さな墓石
では、みかん船の後の紀伊国屋文左衛門の人生とは……材木問屋を開業し、こちらも豪胆な投機的才能を発揮して隆盛します、更に五代将軍徳川綱吉(犬公方)の側用人柳沢吉保や勘定頭などと通じる事で政商として一大飛躍し巨万の富を得て、その後の紀文大尽と言われる数々の豪遊逸話を残します。
特に徳川将軍家祈祷所の上野の東叡山寛永寺は完成迄、三代将軍家光から七十三年の歳月を費やした大伽藍ですが、元禄十一年完成の最大建造物、根本中堂(本堂)の建築用材を一手御用達で莫大な利を得たと言われます。
しかしながら栄華は続かず柳沢吉保などの移動、御用達の失権その他不運の重なりで家運は一気に奈落の底へ落ちて行き最後は黒江町の深川富岡八幡宮一の鳥居そばの陋屋でひっそりと世を去って行きます。……と云うお話もありますが、如何なものでしょうか ……先へつづく… ……前へ戻る

江戸六地蔵
(6) 浅草、巣鴨と孝明天皇急死疑惑と旧中山道の因縁
(5) 深川永代寺の廢佛毀釋と破壊の真実
(4) 深川霊厳寺 芭蕉庵と小名木川(二)
(3) 深川霊巌寺 清澄白河界隈と紀伊国屋文左衛門(一)
(2) 品川寺 品川松右衛門と投込み寺
(1) 新宿太宗寺と界隈