[将軍家] 日光東照宮 (4)−4 徳川家康公の世襲の誤算

中近世日本を支配した武家政治徳川幕府が潰え去ってから144年になります。 曲がりなりにも二百七、八十年、15代に亙る世襲将軍家でありましたが、家康、秀忠、家光の初期三代の隆盛をピークに、あとはお世継ぎにエネルギーを費やすばかりで衰退して往きました。
主に御三家の内、尾張徳川家水戸徳川家の二家が終始将軍家世襲に反した震源の中核を構成しております。 そもそも御三家とは何ぞや?
家康は将軍家の世嗣が絶えた時に備え尾張紀州、水戸の三家より補う事と将軍家を補佐せしめる役目として遺したとされます。 しかしながら将軍に臣従した筈の尾張と水戸の二家が神祖家康公の意に反して徳川幕府の身中の虫と化したのか? 尾張水戸徳川家それぞれの推移を追って見ます。……

尾張徳川家
まず尾張徳川家の始祖、家康の九男徳川義直大阪城冬、夏の陣にも活躍した武将ですが家康は生前、義直に対して、
…秀忠を兄弟と思うべからず、主君とも存じて奉公すべし、とくれぐれも遺言され成瀬隼人正を召して、われ世に亡からん後は、義直をして二心なく秀忠につかえしめよ。夢々あるべからず、万に一も逆心あらば汝等を恨むぞ、……  三田村鳶魚著 ”お家騒動” 三田村鳶魚全集4 中央公論より
さすがに家康は覇者のお家骨肉の争いは見通していたのでしょうか?
二代秀忠の時代は事無く過ぎますが三代将軍家光の代になると家光は有名な宣言を示します。
「大猷院御治世ノ初メニ、国主ノ面々ヲ悉ク呼バセ玉ヒ仰セ渡サレ候、大権現(家康)様天下ノ草創ハ各ガ助力ヲ以テ平均シ玉ヒ、台徳院(秀忠)様ニモ同ジク、昔は各傍輩ニテ御アシラヒ客分ニテ丁寧ニナサレ、参勤ノ刻ハ品川千住迄、上使ヲ遺ハサレシ事ナリ、然ルニ我代ニ及ビテハ、生レナガラノ天下ニテ、今迄二代ノ格式ニ替リ、向後ハ各モ譜代ノ大名ニ同ジク某(それがし)ガ家臣ナリ。コレニ因テ諸事アシラヒ、家臣同然ノ趣タルベク間、此段相心得ラルベシ。  若又会得セザル事ナラバ、如何様トモ了簡アルベシ、在所ヘ帰国ノ節、三年迄ハ罷在テ苦シカラズ、其間ニ徳ト勘へ思ヒ立ツコトアラバ、勝手次第タルベシ、但シ此参府交代ノ節ハ、屋敷迄ニ上使ヲ遺シ候ベシト仰セラル、各アット平伏セリ。」(責而者草) 「三田村鳶魚著 ”お家騒動” 三田村鳶魚全集4 中央公論より」
注)大猷院→三代徳川家光諡名
織田信長を髣髴させる処断で徳川分家国主に主従の関係たる将軍家臣としての分限を明確にしました。 しかしこれを契機に父家康に従い戦場から覇権を共にした自負心からか叔父の尾張家義直の家光への怨念は激しくなるのですが、三家と云えども所詮臣下の身分でありました。  
そこで頼るべきは尊王論となり尾張徳川家は勤皇を目指す家訓を密かに残します。  家康が腐心した将軍を支えるべき役目の御三家創家の趣旨は人間の業の前に将軍へ反逆に転化しました。
では尾張徳川家始祖義直の口伝”円覚院様御伝十五箇条”について。
……御意に、源敬公(義直)御撰の軍事合鑑巻末に、依土命披催事といふ一箇条あり、但し其の戦術にはさしてこれはと思ふ事は記されず、粗略なる事なり、然れどもこれは此の題目に心をつくべき事ぞ、其の仔細は当時一天下の武士は皆公方家を主君の如くにあがめかしずけども、実は左にあらず、既に大名にも国大名といふは、小身にても公方の家来あしらひにてなし、又御譜代大名は全く家来なり、三家の者は全く公方の家来にてなし。
今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言朝臣と称するからは、是は朝廷の臣なり、然れば水戸の西山(光圀)殿は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元、平治、承元、元弘の如き事出来て、官兵を催さるる事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好(よしみ)を思うて、仮にも朝廷に向うて弓を引くことあるべからず、……
 三田村鳶魚著 ”お家騒動” 三田村鳶魚全集4 中央公論より」。 
初代義直の心の綾は、以後御三家筆頭尾張家からは終始一人の将軍も輩出出来ませんでした。 とくに三代将軍家光が寛永十年(1633)冬病臥すると軍を率い江戸に向かいますが品川に至り幕府に差し止められます、将軍の世嗣が未だ無き故か、万一の逝去に備え我こそ次期将軍との自負心の行動と思われますが益々立場を悪くしたようです。…
また尾張七代藩主宗春は八代将軍吉宗にことごとく反発の揚句永蟄居を申し付けられ病没後墓にまで金網を被せられたそうです。 以後数百年も費やして夢見た将軍の座は叶わず尾張徳川家明治維新には瓦解してゆきます。

水戸徳川家
先ずは石高、官位などの比較から。
御三家
 尾張徳川家   61万石    大納言
 紀伊徳川家   55万石    大納言
 水戸徳川家   25万石    中納言

外様大名
 加賀前田家   100万石   中納言
 薩摩島津家    77万石   中納言
 仙台伊達家    60万石   中納言

水戸家始祖徳川頼房は家康の十一男として伏見城で誕生しております。出生年次から御三家の下位にあたりますが石高は他のニ家の半分以下、官位も中納言と披差別的存在です、上記外様大名と比べても石高も問題にならず、さらに官位も同列になっており将軍家族としては阻害された様にも見えます。
しかし尾張の義直のような話は聞こえてこず子福は十一男十五女と恵まれ光圀は第二子として側室久子の出生ですが頼房は正室を持たず話しによれば側室の懐妊には”水にせよ”が通常の口癖だったそうです、光圀の時も家老三木之次が密かに出生させ引き取り育成したそうです、長兄頼重もこの伝で認知の順序が逆になり光圀が兄を差置き世嗣となった説やその他色々ですが光圀は義理がたく三代藩主として兄の子綱条を養世嗣に迎へ自分の子を兄の養子に出しております。
だが、人間の業の前には大義も雲散してしまうのか? 徳川家家族としての自己や、武士道の大義を無視して一旦事在らば朝廷に御加勢し勅命あらば将軍家といえども躊躇せず我も朝臣、将軍も朝臣、全くの平等であると位置つけた結果は水戸藩八代斉昭の子、慶喜が宿願の十五代徳川将軍に就任した事で矛盾が噴出します。
幕末、京都より朝敵の汚名のもと追われ逃げ帰る15代将軍慶喜などは腹掻き切っても間にあわない所業と思うのですが、光圀の怨念にそそのかされ大義を逸脱し二股膏薬的な手管は結局最後には天に向かって唾した結果になりました。 
……いずれにしても水戸の人達は、義公(光圀)のやったことがどういうことであったか、ということはよく知っていたらしい。またそれらによって当時の事情を追想することも、随分出来ると思います。
幕府の政治を朝廷へお戻しするということ、それはいかにも義理の正しい、立派なことでありますが、光圀はそのほかに厭がらせなどを盛んにした。厭がらせなどということは、どう考えても、公明正大なことではあるまいと思う。幕府の政治をやめて、大政を朝廷へお返し申すということは、公明正大なことでありますが、それにいささかでも厭がらせなどすることがあってはおもしろくない。
殊に三家としては、家康の仕置かれた祖業ということを知っておかなければならず、久しい戦国の後を取り治めて、太平の世にしたということも、考えなければならぬと思う。 その上にも自分は幕府の親類であり、臣下でもあるはずなのだから、その間の情誼もなければならない。 もし祖業がよろしくないという断定をしなければならぬとすれば、いかにも大義、親を滅すということもあるから、その事情を明らかに幕府に示して、公明正大に働かなければならない。公明正大に働くにはどうするかといえば、自分も封土を幕府に返して、宗家からの恩沢を受けないようにして、それから道理を唱えて大義を起こすべき訳柄だと思う。幕府から幾分の威権と封土を分けてもらいながら、宗家に反くのは不都合な次第である。一体水戸家でない。 
 三田村鳶魚著 ”お家騒動” 三田村鳶魚全集4 中央公論より」
まさか御三家が?…将軍世嗣問題が絡み神祖家康の偉業も、血縁も、覇権の安泰も、武士道さえも忘れ去り、陰湿に将軍の弱点をつく有効手段としての勤皇思想を標榜し不平不満、プライドなど怨念の埋め合わせにしたかと思えます。 時代を通して現代の人間模様も家業、遺産の骨肉の争いは眼を覆うばかりですが同じ次元での将軍子息の継嗣欲望の顕示の道具はお定まりの尊王論での揺さぶりでした。……
徳川家康江戸幕府は”禁中並び公家法度”の制定で天皇、公家を幕府法制下に位置付け完璧の体勢と思へたが、肝心の国家統治の意識、制度は古代律令政治には遠く及ばず、武家の官位さへも形骸化した天皇に依拠していた実体を尾張の義直と水戸の光圀に虚を突かれ、復古意識で推移しますが金地院崇伝や南光坊天海は既に亡く、大老井伊直弼も遅きに失し、将軍家は代々世嗣問題にエネルギーを費やし壊滅の途を歩むばかりでした。 ……前へ戻る

日光東照宮(4) 徳川家康公の世襲の誤算
(3) 家康公霊柩到着と初代東照宮の行方
(2) 家康公霊柩遷座の行程
(1) 建立 なぜ日光なのか