[歴史] 甦る記憶 (4)ー8 昭和の消えた生活 仕事

前回のカフエに引き続き矢場、ビリヤード屋を覗いてみます。矢場と云えば明治時代の浅草奥山に在った揚弓場の事と、大弓場と呼ぶ普通の弓矢を射る矢場にわかれます。私の見掛けたのは大弓場の事で盛り場、それは元遊郭などの近辺にありました。 矢取り女が目的の浅草の矢場とは違いむしろスポーツ的な遊びに見え、色町の界隈をそぞろ歩く手持ち無沙汰な人々が見物したりします。射る方も畑の片隅でやるよりはギャラリーを集め張り合いが在ったのかも知れません。
では浅草奥山の矢場とは十二階下の銘酒屋(めいしや)と同じく私娼街の類のようです。荷風さんの濹東綺譚挿絵画家の木村荘八さんの本には……矢場にはそういう「的裏の三畳敷」が構成されたこと、…僕はコドモの頃「平さん」に連れられて「矢場」へ行ったことを記した。平さんはその時僕が的場で「いい匂いのするお姐ちゃんと」余念なく弓技している間に的裏の三畳敷へ隠れていたことだろうし、…浅草私娼街は更に安直な銘酒屋の出現で回りくどい矢場は廃れ銘酒屋隆盛の経過があり、更に進化したのが関東大震災後の移転先の玉の井私娼街でした。……
ビリヤード…繁華街から場末の街まで一時ビリヤードはよく見かけました。二、三台程度の店内の壁にキューをズラリと立て掛け片隅の小机に点取りの女性が座り、大きな玉ソロバンを立掛け、プレイを見ながら黄色い声でアタリーとか点数を呼んでいました。窓から覗く程度の知識しかありませんでしたが、……
物乞い(乞食)…現在は全く見かけないお仕事ですが、戦前戦後まで東京盛り場のガード脇とか橋の袂など、人通りが多い場所に座って居り、色々なタイプがありました。 自分の脇に首にザルを付けた 犬を座らせる、赤子を借りて背負う、三味線を弾く女、更に一世風靡したのが、真偽微妙な存在の傷痍軍人スタイルの二人組みはアコーディオン伴奏でシベリア抑留者の「異国の丘」を歌う、この人達は街頭から走行中の山手線車内まで進出しておりました。 (注)傷痍軍人の服装とは軍帽、軍靴を履き、着衣は白木綿の着物(和服)で胸に傷痍軍人記章を付けています。
更に古いお話なのか、「右や左の旦那さま、とうぞ一文お恵みください」などクラシック調は聞いた事はありませんが、大正、昭和の初め頃、町屋火葬場には亡くなった人の供養にと遺族や会葬者が物乞いなどに喜捨する風習があり、乞食さんが沢山門前に屯しており、物乞いに応じない向きには「…お近い内にまたの御越しを、お待ちしております。…」などと悪態をつく悪が居たとも聞いた事がありました。……
それでは少年時代興味のあった鉄道から消え去ったもの……
単線鉄道のタブレット交換…中高年の方は既に御存知のお話ですが、最近は地方の単線区間でも自動信号機に置き換えられており、あの懐かしいタブレット(金属製)入れの皮のポケットの付いた鉄の輪を駅員と乗務員が遣り取りの風景は何処の田舎駅でもありました。駅舎内には閉塞器と云うタブレットと連動する赤い機械が上下次駅との連携用に2台置いてあり、線路切替用手動転轍機のレバー棒が並んでおり、また腕木式信号機も閉塞器と連動させております。線路駅間に存在する1枚のタブレット携行車輌のみ通行が許可される衝突防止システムです。
鉄道手小荷物取扱い…昔は学生でもお馴染み、…進学、就職など移動で布団包や行李などの手小荷物は乗車券があれば、別途安価に送れる鉄道手小荷物を「チッキ」と呼び、各駅には受付の窓口が必ずありました。東京では省線電車区各駅を1輌編成の木造手小荷物専用電車が各駅を集配しておりました。 旅客列車の場合は郵便と手小荷物を半々に仕切った荷物専用車輌などが連結されます。
貨物列車連結車掌車…鉄道貨物車と云えば2軸貨車の時代は鉄道が物流の王者でした。この時代は大型のボギー車はチラホラで2軸貨車は用途別に種々雑多の有蓋、無蓋車、家畜車冷蔵車、タンク車、木材車などで編成され蒸気機関車に牽かれる貨物列車を眺める楽しみがあり、長距離家畜輸送には有蓋車のドアーを開放し牛馬を積み博労が同乗し世話をする姿も見かけました。貨物列車の最後尾に必ず車掌車が連結されています。 また鉄道旅行で印象的な風景だったのが、当時の夜行長距離列車のダイヤでは地方駅の深夜通過が常態です、通過主要駅の照明の灯る無人のプラットホームには数十の鏡と洗面台の列が何か侘しく並ぶ風景がありました。 蒸気機関車時代の地方駅ホームの洗面台設置は定番でした。……
敗戦後駐留アメリカ軍の鉄道運輸事務所が主要各駅に置かれ駅長事務室などを米軍が占拠してRTO(Railway Transportation Office )業務を始めます、中学生の私が利用した敗戦後の陰惨な新宿駅の各プラットホームに灯るRTOの赤いネオンサインが印象的でした。
中央線でよく見かけた真冬の早朝、スチームで窓が曇った米軍軍用列車は立川フィンカムや横田の飛行場と羽田アーミーエヤベースを結ぶルートと考えられ、東海道線蒲田駅経由、京急京浜蒲田駅までは新線路を施設して京急穴守線の上り線路を接収して米軍羽田空港へ兵員輸送の専用ルートがあり、朝鮮戦争の時にも繁忙した鉄道ルートでした。 京浜急行電鉄も講和締結の昭和27年までは穴守線(羽田空港線)上り線路を米軍が占領し、京急電車は下り線一本の単線運転でした!!。
省線電車では私の見掛けた中央線では電車編成の東京寄り先頭車両の半分が仕切られアメリカ軍専用車とされ車体には白帯線が描かれています、また小田急線でも1輌編成白帯線の専用車が厚木、相模原方面行きのダイヤがあり、ロングシートとたっぷり塗られた木床のフローリングオイルが印象に残っております。。……先へつづく… ……前へ戻る

《甦る記憶》(8) 昭和珍商売 世投げ屋、偽傷痍軍人、犬殺し
(7) 昭和珍商売 モク拾い、泣売(ナキバイ)、衛生博覧会
(6) 昭和仕事 俥夫、ボテフリ、カラス部隊
(5) 昭和の仕事 エンヤコラ、車力、馬方、汲み取り屋
(4) 昭和の消えた生活 仕事
(3) 街から消えた商売
(2) 日本国とアメリカCIAの関係
(1) 女衒(ぜげん)、華族、貴族院