[河川][歴史] 昔の荒川探索行(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」

歩き回って疲労困憊、自然堤防に興味を持ったのが自縄自縛でした。でも……今回歩いた成果……発達した自然堤防上は村落、社寺、街道など人間社会の営みの場所に進化して…密接な繋がりが分かりました。
さて、古隅田川左岸(現在と流れは逆)自然堤防追跡は岩槻の古刹大光寺附近(長宮地区)まで南下してまいりましたが、現在の元荒川と指呼の位置に在る大池(大堀池)先でどうやら東へ向きを変え、県道80号野田岩槻線を辿る気配になりました。 



photo…金山堤自然堤防河川側、古奥州街道跡、岩槻区増長香取神社理由は古奥州街道跡が県道と重複している、即ち自然堤防跡です。1.5km先に香取神社の森が見えます、この森自体が自然堤防上に在るのです。ここ岩槻区増長を発端として大口、大谷、大戸の武蔵第六天神社までの2kmたらずには発達した自然堤防と砂丘複合で構成された微高地帯が続き、自然堤防河川側には森が延々と存在しております。古い文書に金山堤と記されているのですが、名称の謂れは不明です。
この金山堤は自然堤防発達メカニズムの教科書の様な条件が揃った場所で、大河利根川、荒川合流の氾濫原から自然堤防造成と北西の季節風の運ぶ土砂粉塵が自然堤防の東南側に堆積拡大が堤防発達の過程を現し、自然堤防裏側の後背湿地帯(現、水稲大圃場)の存在など、明白に構成が確認できます。……
……と、云う事で”百聞は一見に如かず”……定番ツール…Google mapの航空写真で俯瞰追跡してください。




photo…岩槻区大戸大六天神社境内と元荒川、取水堰芸者の飾り、大六天門前料理屋街続けます…近世初期、荒川(元荒川)と隅田川(古隅田川こと利根川)の二大河川が合流した岩槻大光寺南附近の構成が金山堤誕生の条件ですが、当時を推測しますと荒川右岸は現在の岩槻文化公園と元荒川緑地附近は台地張り出していた気配があります、左岸は県道80号線南は現在の元荒川迄が広大な氾濫原(河川敷)を構成、それを取り囲む自然堤防(金山堤)が連なり、大野島集落とは中洲を示しているのでしょう。往時はこの氾濫原を濁流が流れくだったり、異常降雨が続けば一面の帯水地帯などと変化が想像出来ます。
この金山堤とか、堤と呼ばれる帯状に構成された微高地上には古奥州街道跡が道路として供用され他に一本、都合2本の道路が村落を縦断しており、堤の北端に位置する増長と南へ大口、大谷の三箇所には各村の鎮守香取神社が鎮座、最南端の大戸には武蔵第六天神社が有名です。
なお、大口の香取神社の御由緒から、…創建時期は不明ですが、神社再興が慶長2年(1597)の記録が残り、利根川、荒川の瀬替え以前の所謂中世の時代には既に自然堤防上には人々が生活していた事が分かります。……また、境内脇に明治政府の廃仏毀釈神仏分離令など厳しい文化破壊を乗り越えたのか往時の地蔵尊などが並べて保存されていました。



photo…金山自然堤防の後背湿地帯、岩槻区大口香取神社の保存地蔵尊元荒川河畔の大戸は第六天神社の門前街だったのか、今でも川魚料理屋三軒が軒を連ね繁盛しております。神社境内は元荒川堤防上にあり、桜の名所、今の時期は満々と湛えた川面と緑陰は風光明媚なスポットです。その昔は恐らく街道筋の遊興の地であったかも?、と……直ぐ川下の末田須賀農業用取水堰共用橋には芸者さんの飾りがあり、この辺鄙な場所になぜか?…と、首を捻りましたが………
料理屋さんは主にうなぎ蒲焼が有名で何処も座敷での食事が場所柄落ち着き美味でした。2軒のお店を利用した覚えがあります。…………今回の探訪地域は、将に陸の孤島…公共アクセスはありません。……次回へ進む
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《昔の荒川探索行》
(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市
(10)元荒川由縁の街 越谷市
(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」
(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態
(7)大地に刻まれた古隅田川自然堤防を歩く
(6)荒川を支流にした古隅田川(隅田川)
(5)岩槻市元荒川と謎の古隅田川
(4)元荒川が大河の残滓を残す流域
(3)元荒川を下る
(2)荒川西遷(瀬替へ)の要 熊谷市
(1)人工河川荒川の成立(西遷事業)