埼玉県行田市(5) 足袋の行田か、行田の足袋か!

行田市の話で足袋が抜けては仕方が無いので、今回は足袋に拘わります。……
戦中派の私でも足袋を履いたのは子供の頃の記憶程度、能書きなど無理な話で、勝手なしゃべくりになります。 現代のお方にしても足袋とは和装の一部程度の認識かと思います。……そこで話の前に足袋の知識をチエックしてみましょう。 ▲そもそも足袋とは渡来した文化なのか、▲なぜ爪先が親指と他の指に二分(叉割れ)されているのか、▲何時頃から足袋を履くようになったか?………如何でしょうか!…
では始めます。……ドラマ「陸王」のランニグシューズの爪先が足袋の様に二分されていますが、ドラマ最終ではどの様な型に決着するのか重大な楽しみです。! 秩父鉄道行田市駅

………足袋の爪先が二分されている理由は簡単…下駄、草履、草鞋などを履くたため!。…それでは履物の下駄、草履は何処から来たのか?……日本に米作技術が渡来した弥生時代の出土物に田下駄(農耕用)が散見され更に古墳時代には日常用の下駄(三角点に鼻緒穴あり)の出土が多数見つかる様になります!… 一面、その頃に勃興していた朝廷では隋、唐の制度文化の導入で中華規範の服飾、履物(浅沓、沓)着用は身分別に厳守され下駄草履の類はみられません。………その後、武士階級出現後には、はじめて草鞋、草履が見られ武士は皮革製の足袋を履くようになり、戦乱が収まった江戸時代には廉価な木綿製足袋が急激に普及する迄になりました。
…草履下駄文化も江戸時代には華美に装飾化され発展し…昭和の時代初期まで一般化されて来たようです。………と、云う事で草履下駄文化に付帯した足袋は日本固有の履物といえるのでしょう。……
さて、……現在のグローバル時代、異質の文化も特別珍しくはありませんが、特に戦前などでは異質が蔑視に転化される場合も、世界でも頻繁にありました。過っての日韓併合時代には朝鮮半島の人の目には日本人の足元の下駄、草履、足袋などの風習が異常に見えたのか?…豚足→半蹄の動物の足に見立ててチョッパリ朝鮮語)と言えば日本人を指す隠語?が通用していたようで、在日の方々はパンチョッパリ(半日本人)と呼ばれるようです。……
一方日本人の眼には……当時は朝鮮半島から家族ぐるみで日本への移住者は多く、大田区多摩川沿いには移住者の共同体部落が出現しておりました。働きに出る人や学校に行く子供を除いてじいさん、ばーちゃん、かーちゃんなど皆白い韓服と白いゴム靴を履いており、当時の悪ガキ連中は違った風習を見ようと偵察に行ったものです、……特別印象に残ったのは部落の人達が一様に履いていた生ゴム製の白靴で、丁度ベニスのゴンドラの形をした浅いゴム靴の爪先が舟の舳先の様に尖っていた事です。いみじくもチョッパリの話から、…当時の子供が朝鮮半島の人を「……靴の先がちょっと違う」などと言った覚えがあります。………行田 忍城

ま…話はさて置き、当地行田市は遠く飛鳥時代の武蔵の国さきたま郡(ごおり)のあった場所です。その古代武蔵の国は高麗、新羅百済の渡来人による先進文化流入で強い絆の在った場所柄でもありました。
また、古都京都の伝統社会では”白足袋もん”、”白足袋衆”の俗称で僧侶、神官、茶の宗匠、その他家元、老舗旦那衆、花柳界三業の女性や女将を言い、「白足袋には逆らうな」、「白足袋には気をつけろ」などと言いまわす向きも居るようです。 ま、……調べてみますと古都京都の社会構造が垣間見えるのかも?。…
………本題に戻りまして、過って足袋の生産日本一、シェアー8割を誇った行田市の在る埼玉県でしたが、現在のNO1は足袋産地鳴門市を抱える徳島県です。(注)平成22年度出荷額 一位…徳島県約8億円。二位…埼玉県約5億円。三位…岡山県約1億円。…と云う事で”足袋たび”支離滅裂な話で申し訳ありませんでした。…頓首。……つづく
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《行田界隈》

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