[河川][歴史] 昔の荒川探索行(3) 元荒川を下る

前回までは有名な荒川締め切り地点熊谷久下村附近を歩きましたが、今回からは締め切られた旧荒川本流跡を流れる元荒川の追跡です。
早速、現在の元荒川の源流とされ、既に探索した熊谷市役所ムサシトミヨ保護センターの養護池の湧水の流れる綺麗な小川の流れと一緒に私達も下ります。……
探索用にはgoogle mapと併設のgoogle航空写真を使用して地図と上空からの俯瞰を併用いたしますと…眼から鱗!、地域の環境、地形、流れの改修跡さえ見えてまいります。



photo…利根大堰と導水路
この元荒川と称する細流は熊谷市の外れくらいまでは湧水などを集め、清き小川ですが源流附近から元荒川通りと絡みながらJR高崎線行田駅南に達し、ここ迄で元荒川通りは終わり、JR高崎線を目安に流れを追跡します。 部分的に観察した状況は昔から田舎の自然の流れで普通の川!、近代化した用水路とは大分違うようです。JR吹上駅近くなりますと高崎線の北に切れ上がり住宅地を流れ、くねくねと北上し今度は上越新幹線の南側に達しますが、この地点はJR北鴻巣駅の北方で忍川との合流点、併せて武蔵水路と交差いたします。………と云う事でこのポイントが今回の話の要点になります。



……photo…各用水路への分水池と鴻巣附近の武蔵水路
ここ迄の航空写真から首都圏の可なりの遠方まで開発され住宅地化と工場進出が浮き彫りにされ、首都圏一極集中を目の当たりいたしました。……が、余計な事に関わらず話を進めます……前述のポイントに戻りまして、この地点は歴史遺構と近代都市東京を支える重要施設の存在場所です。即ち…先ずは…石田三成! ですが、秀吉の小田原北条氏征伐の大将として行田市忍城攻めを命じられ、一帯の低湿地を利用した堅守不落の名城を逆手にとって水攻めにした話は有名ですが、その時に石田三成が築いた堤(石田堤)の遺構が存在します。この水攻めに用いた導水は当時の荒川本流(元荒川)だったのですが、現在の細流元荒川からは想像外の安土桃山時代の話です。……
では、遥かな歴史から現代へ……世界屈指の大都会東京に欠かせない近代施設武蔵水路がこの地点で元荒川と立体交差し、水路はサイホンの原理で元荒川の下を通過して合流を避けております。
そもそも武蔵水路とは何ぞや………この水路を北上しますと行田市北部の利根大堰利根川)からの導水路です。この武蔵水路利根川鴻巣市糠田で荒川(現)を結ぶ14.5 kmの水路で利根大堰で取水された毎秒137トンの水が分水池で武蔵水路、見沼代用水,埼玉用水路下流葛西用水路に分流)に分水されます。
 


photo…武蔵水路がサイホンで元荒川の下へ流下部分と上部の元荒川の流れ ここで分水された武蔵水路こそが東京の水道用水源の本命であり、更に……過って東京オリンピック開催以前の悪臭下水河川”川に蓋をしてしまえ”と云われた隅田川の水質改善をして、花火復活や墨田堤の観桜など、大東京に無くてはならない隅田川河畔の情緒や環境が復活しました。………その昔、新大橋下流河畔にあった芭蕉庵で芭蕉さんの一句、…”名月や門にさし来る潮がしら”……


photo…石田堤の遺構の一部利根大堰とは……埼玉県行田市須賀と群馬県千代田町間の利根川の692mの取水堰で利根大橋が併設されております。ここで取水された武蔵水路は南下し荒川に直接放流され、更に荒川下流秋ヶ瀬取水堰で導水して朝霞浄水場や東村山浄水場に給水され東京都の上水道の40%に達します。更に埼玉県でも上水道水の70%を取水しております。……なお、隅田川の浄水策としは、荒川から新河岸川朝霞水門を経て隅田川に導水して浄化用水としております。 荒川とは……洪水時に本性を現す荒ぶる川ですが、上流起点の奥秩父附近山岳は比較的水資源に乏しく、流水量は利根川と比較して大分少ないのが常態なのです。    
……次回へつづく
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    《昔の荒川探索行》
(11)中世の荒川本流「綾瀬川」と草加市
(10)元荒川由縁の街 越谷市
(9)古隅田川自然堤防の集大成「金山堤」
(8)中世の氾濫原、古隅田川流域の実態
(7)大地に刻まれた古隅田川自然堤防を歩く
(6)荒川を支流にした古隅田川(隅田川)
(5)岩槻市元荒川と謎の古隅田川
(4)元荒川が大河の残滓を残す流域
(3)元荒川を下る
(2)荒川西遷(瀬替へ)の要 熊谷市
(1)人工河川荒川の成立(西遷事業)