埼玉県行田市(3)久能山から日光へ家康公霊柩遷座と行田

本題の前に、毎週ドラマ「陸王」を楽しんでいるてまえ、足袋に係わる思い出を手繰ってみました。………昭和も十年代、東京のちょっとした商店街には必ず足袋屋さんが商いをしており、子供心の記憶に残る店内はカラフルな子供用別珍の足袋やら、白足袋、黒足袋など豊富な種類寸法の製品が綺麗に並べてあり、店奥の小さな畳敷きには磨き込んだ大きな木株の台と足型やら木槌などで足袋を叩いたり伸ばしたりして、店主や職人が商品を修正しておりました。意味が分からなかったのですが、製品をお客様の足の特徴に合わせる加工だったのかも知れません。………ま、考えてみれば三業関係者や客商売のご婦人達の足元はぴっちり、キリットした白足袋姿が目立ちましたから……日光東照宮奥の院 徳川家康公宝塔

さて、徳川家康公霊柩遷座の旅程は元和3年(1617)3月15日久能山東照宮を出発し3月27日、第7番目の宿泊地 忍(行田市)に到着しました。……………三月二十七日 霊柩仙波を出まし忍につかせ給ふ。今宵曼荼羅供行はる。(台徳院実記より)……では少し踏み込んだお話になります……家康公没一年後になぜ久能山から日光へ遷座したのか?……
……元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康は、にわかに発病し駿府に帰城しますが4月になると病状は悪化、死期を悟った家康は4月2日には本多正純南光坊天海、金地院崇伝を枕元に召して、死後の処置について指示しています。……金地院崇伝の日記(本地国師日記)より、即ち………本上州、南光坊、拙老、御前へ被為召、被仰置候ハバ、御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候。……とあり、この遺言によって、のちに日光山に東照宮が建立されることになり、この霊柩遷座の旅程の7番目の宿泊地が忍(行田市)だったのです。
では霊柩の宿泊行程の全貌を「台徳院実記」より転記いたします。…

…元和3年(1617)3月15日 久能山東照宮を出発…
3月15日 今日のお泊りは、富士の善徳寺なり、砌(みぎり)に散る桜あれば咲くもあり、是れすなわち常住の理なるぞや。
3月16日 霊柩吉原より浮島が原をへて三島に泊らせ給ふ。 17日 けふも霊柩は三島に泊らせ給ふ。
3月18日 霊柩、箱根山をこえて、小田原につかせたまふ。 19日 霊柩けふも小田原に泊らせ給ふ。
3月20日 小余綾(こゆるぎ)の磯を過て、霊柩を中原の御殿にとどめらる。
3月21日 武州府中の御殿につかせまします。 22日 けふも府中に泊らせ給ひ、さまざまの御法会行はる
3月23日 霊柩仙波(川越)につかせ給ひ、大堂に入らせらる。 24日(仙波に滞在) 3月25日 仙波にて川越の城主酒井備後守忠利もよふしにて、今宵衆僧を請じ論義あり。大僧正天海証義つかふまつる。 26日 仙波には猶御滞在にて、終日御法会どもいとことごとし、今宵は大僧正天海みづから沙汰として、衆僧を請じ法華読誦す。…
3月27日 霊柩仙波を出まし。忍(行田)につかせ給ふ。今宵曼荼羅供行はる。
3月28日 霊柩忍を出まし。館林にお中やどり有て、佐野の春日岡といふ寺に入奉る。惣宗寺といふ寺なりとぞ。上野介正純あらかじめ御殿をいとなみ、ここに蹕(ひつ)を駐たまふ。
3月29日 霊柩佐野を出まし、……こよひは鹿沼薬王寺を御旅所とせらる。この所に四月三日までおはしましぬ
4月4日 日光到着 座禅院へ 4月8日…元和3年(1617)霊柩は既に竣工なった東照宮奥の院の廟窟地下に埋葬し家康公神霊遷座の儀が行なわれた。 4月17日…二代将軍秀忠参加のもと小祥忌(一周忌)を執り行い東照大権現は遺言…下野の日光山に小堂を建て勧請せよ、神に祀られ関八州の鎮守にならん。と指示した如く鎮座いたしました。 ……なお、霊柩宿泊の各地は家康公生前よしみの鷹狩り御殿、お茶屋御殿、寺院、お城などです。
忍(行田市)の場合は関東入府後の忍城主に家康の四男松平忠吉を十万石で入城させた誼と考えられます。が霊柩宿泊時の忍城天領の城として代官伊奈忠次が治めておりました。 即ち、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの武功で忍藩主松平忠吉尾張藩52万石に移封され、寛永10年(1633)に)”知恵伊豆”こと松平信綱が3万石で忍藩主に入る迄の33年間は藩主は不在の天領と云う状態だったのです。川越喜多院慈眼堂厨子天海僧正坐像


もう一つ……生前特に日光との誼の無かった家康公が日光東照宮に祀られる事をなぜ、望んだのでしょうか?………川越喜多院南光坊天海に心酔し「天海僧正は人中の仏なり」と帰依し、江戸入府後の政策の要職に任じられた事から始まります。
関八州の聖地、天平時代に日光開山の祖…勝道上人による四本竜寺の変遷は→満願寺光明寺→座禅院→日光山輪王寺となりますが、衰退した座禅院時代を復興した南光坊天海の影響から日光を選んだと考えられ、更に神格化でも天台宗の僧、南光坊天海創起する山王一実神道に則り薬師如来を本地佛とする東照大権現として創建の東照社に祀られたのです。…………以上、家康公の江戸入府後の政策、外交渉など主要政治のブレーンは家康公の枕元で遺言申し付けを拝聴した南光坊天海、金地院崇伝、本多正純の三名で、特に徳川幕府の根幹…「武家諸法度」、「禁中並公家法度」を起草した金地院崇伝、関が原後の豊臣家対策で本多正純の業績があります。
……つづく
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《行田界隈》
埼玉県行田市(6)旅、足袋話し
埼玉県行田市(5)足袋の行田か行田の足袋か
埼玉県行田市(4)埼玉県名発祥の地行田市と忍
埼玉県行田市(3)久能山から日光へ家康公霊柩遷座と行田
埼玉県行田市(2)忍藩と利根川東遷事業
埼玉県行田市(1)私の中の行田