[人物][幕末][河川]  江戸川(4)−7 流山、近藤勇の生き様

由緒のある神社やお寺などそれぞれ伝説がありまして、境内には立派な石碑など用意して、その有難いお話を残しております。 お寺さんの最大公約数的な伝説は「夢枕のお告げ」でしょう。 寺の御住持の見た夢が…大体は地蔵様や菩薩など仏様が夢枕にお立ちになりお告げをされるケースでしょう。
神社さんとなると更に突飛な話、…境内の御神木は由縁ある木の枝を差したら一夜にして巨木になった!、狐に導かれて…、特に神話の神様、日本武尊猿田彦、すさのうの命など更には名前も知らない神様が日本国中歩き廻っています。 奇蹟の御神徳を強調するのが宗教たる所以かもしれませんが。
当地千葉県流山も江戸川河畔には小さな丘がありますが、上州の名山赤城山の一部が流れ付いた云われ、頂上には赤城神社が祀られており、神社さんの御由緒が即ち流山の地名の由来なのです。
左) 流山旧街道地図 右) 赤城神社拝殿



では流山の聖地赤城山から俗界に降り、江戸川の上流方向に歩き、路地に入りますと閻魔堂と新撰組局長近藤勇の陣屋跡があります。
先ず、ささやかな閻魔堂には墓地があり、江戸講談で有名な天保六花撰は、黙阿弥の歌舞伎世話物通し狂言「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)、の御数奇屋坊主”河内山宗俊御家人くずれ”片岡直次郎こと直侍、下総流山の醤油醸造問屋せがれ”金子市之丞”、物産問屋”森田屋清蔵”、遊び人”闇(くらやみ)の丑松”、紅一点”花魁三千歳(みちとせ)とくれば、昔の人はこの悪党達の所業は何となく知っているような気が致します。 この墓地には金子市之丞の小さな墓があり、その隣の三千歳の墓がここに在るとは良くわかりませんですが。
流山では市之丞は実在した人物と云われ、当地では義賊と慕われ、あたかも鼠小僧次郎吉みたいな盗賊だったのか?、講談では凶状持ちの博徒の成れの果ては、流山の御用聞き甚兵衛のお縄を頂だいし刑場の露と消えたのです。  地元の人々の手で此処に葬られたのだそうで墓石には文化十酉年(1813)十二月二十日と刻されています。
この閻魔堂の先には古い土蔵がありその前の石碑には”近藤勇陣屋跡”と書かれております。 流山における近藤勇終焉への始末は!鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜大阪城から敵前逃亡し、海路江戸帰還の事態は、遂に幕軍大敗走となり、新撰組も江戸へ撤退、再起して甲陽鎮撫隊を結成、甲州街道甲府方面に官軍迎撃に出陣しますが錦旗の奔流には最早抗せず勝沼で敗退します。 その後江戸無血開城が決まり、官軍の江戸総攻撃が中止となると慶応四年(1868)三月十四日には綾瀬の五平新田(足立区綾瀬)金子佐内家に近藤勇土方歳三新撰組が現れます。…以下、近藤勇の終焉に至る経緯を客観的に見る為に各地文書の引用に勤めました。 
五平新田金子家文書。足立風土記6 綾瀬地区 足立区教育委員会編より
……金子家文書によると、3月14日夕に、縁者の泉谷次郎左衛門の使いが左内家に来て、出入りの屋敷の人が、国表に行くのに、道中が混雑してままならないので、15人程、一両日逗留させてほしいという依頼があり、引き受けることにしました。 その夜10時頃に、依頼人の親類が40人程引き連れて来ました。

依頼された人数と違うし、様々な御触れも出ているため、当主の鍵十郎は断りましたが、聞き入れられず、しかたなく一両日だけということで泊めることにしました。 しかし、一両日過ぎても、動く気配もないばかりか、その夜から人数が、次から次へとふくれあがり、村人の不安が募りました。 その内、左内家だけでは賄いきれなくなり、最終的には、左内家47人、新宅に35人、竜二郎方に83人、観音寺に62人、と4軒に分宿し、五平新田に227人もの兵が屯集しました。
伝説によれば、新撰組が五平新田に屯集しているとの報が新政府軍に入ると、3000名の追手が派遣され、4月20日未明に小菅籾蔵(もみぐら)に陣を張り、伊藤谷橋のたもとに大砲を設置したそうです。 こうした動きを察知した新撰組は4月1日夜のうちに五平新田から退いたと伝えられています。 この後、近藤勇たち新撰組は、下総流山に転陣しました。 近藤勇は流山転陣に際し、自分の写真といっしょに金二千疋を金子建十郎に渡したと伝えられています。……


近藤勇流山陣屋跡と金子建十郎に手渡した写真。足立風土記(金子家所蔵)
なお綾瀬五平新田から流山転陣の以前から近藤勇は直参旗本の若年寄格となり大久保大和と改名、土方歳三も直参旗本寄合席格となり内藤隼人と改名しておりますが、慶応4年(1868 明治元年)1月18日、大阪敵前逃亡の主、徳川慶喜江戸城近藤勇土方歳三を拝謁し、それぞれ若年寄(老中に次ぐ重職)と直参旗本寄合席格に二人を任じ更に破格の徳川家功臣の姓、近藤には大久保(大和)、土方には内藤(隼人)を贈り、その功に報いたのです。 
流山における新撰組と追討新政府軍との遭遇は地元では流山戦争と言い伝えられており『驍将(ぎょうしょう)近藤勇来歴』と『千葉県東葛飾郡誌』などの収録があります。
流山のむかし  流山市教育委員会
新撰組隊長近藤勇、副隊長土方歳三は兵五百余を率いて来て、流山の豪商長岡某の家を本陣として屯営し、あえて動こうとはしませんでした。 
東山道の先鋒附参謀香川敬三自ら、彦根、大垣など諸藩の兵三百を率いて千住より潜行し、埼玉の吉川方面より流山に出で、夜に乗じて飛地山、及び羽口の渡し(現在下花輪)に砲列を敷きました。 時に四月十五日のことです。 近藤勇は、自ら官軍の軍門に至り陳述しょうとしました。
土方歳三がこれを諌めましたが、『官軍と戦うは慶喜公の志にそむき且つ此流山を兵火の災にあわせ諸人を苦しめざるを得ない。 吾一人身を殺して諸人の難を救う事が出来れば死んでも恨みはない。』と遂に心を決し、単身、香川の陣所へ到りました。」というものです。……

近藤勇は慶応四年(1868)四月二十五日板橋庚申塚(東京都板橋区)で斬首されております。大久保大和の名で刑場の露と消え、生涯”誠”の旗を掲げ通した精神は古き倫理の残照でしかなかつたのか。?。享年三十五歳。 一方、土方歳三は拝領名内藤隼人をきっぱり捨て去り、榎本武揚のもと函館五稜郭に転戦し、戦死しております。享年三十五歳。 生涯の盟友の死に様の違いは、徳川幕府を自らの手で薩長に売り渡した十五代将軍徳川慶喜その人に在ったと思はれます。 
近藤は己をを直参旗本に取り上げてくれた慶喜の恩顧に殉じたのか?、土方は家康公以来の徳川幕府に殉じたのか、共に胸中錯綜するものが在ったのでしょう。 …… 次回へつづく… 。……前回へ戻る… 

《江戸川》
(7) 浦安町バーチャル手帳
(6) 懐旧の浦安町
(5) 利根運河 銚子航路蒸気船から筏(いかだ)まで
(4) 流山、近藤勇の生き様
(3) 味醂の街流山と近藤勇、小林一茶
(2) 行徳新河岸と日本橋長渡船
(1) 川という人工導水路と防災安全性は