[人物][歴史]  渋沢栄一(3)−5 新政府出仕と従兄弟達の彰義隊始末

引き続き、幕末明治時代の乱世に一農民から近代経済を導入実践して日本国の先覚者に上り詰めた人物の幸運とプロセス解明がテーマのシリーズです。 …話が外れますが…最近自民党憲法改正案なるものが公表されておりますが、そもそも自主憲法などと称して現憲法を卑下する相変わらず国粋主義の思想が回生し、まるで先祖がえり!日本ガラパゴス化推進案にみえます。 現憲法明治憲法が否定した、主権在民言論の自由、思想の自由、宗教の自由、男女平等、身分平等、人権尊重、など民主主義が実践され、初めて国際社会に民主主義日本国の立場が認知された尊重すべき憲法なのですが。
…戻りまして、… 慶応元年12月3日 徳川昭武渋沢栄一一行は一年余りの西洋滞在を経て横浜港到着、帰国しました。
栄一の述懐では彼自身に関しては先進諸国歴訪により見聞は開けたものの多忙で先進経済知識などの勉学、指導を受ける機会は無かったと言っています。 東京に戻った栄一は養子平九郎や従兄弟達の消息を聞いたり父親にも面会し尋ねられるままに今後の身の振り方を語るには、
……今から函館に行って脱走の兵に加わる望みもなければ、また新政府に媚びを呈して仕官の途を求める意念もありません。せめてはこれから駿河へ移住して、前将軍家が御隠棲の側にて生涯を送ろうと考えます。
それとても彼の無禄移住といってその実は静岡藩の哀憐を乞い願う旧旗本連の真似は必ずいたしませぬ、別に何か生計の途を得て、その業に安んじて余所ながら旧君の御前途を見奉ろうという一心であると告げ
……雨夜譚(あまよがたり、自叙伝)
元将軍徳川慶喜は謹慎助命嘆願の甲斐あって、新政府に受け入れられ、明治初年に徳川宗家(旧将軍家)を相続した徳川家達(御三郷田安家当主)の静岡藩70万石を頼って移住し更に謹慎します。
そこで上記”雨夜譚”の思慮の如く栄一は自己の生計と静岡藩財政を確保すべく静岡で商法会所(のち常平倉)を開き、株式会社の実践を試みました。が……運命の歯車は更にギヤレシオを上げて迫ります。…明治二年、太政官(明治政府)から出仕の召状が届き、大蔵省出仕を命じられた栄一です。静岡居住の経緯から終始辞退をいたしますが、大蔵大輔の大隈重信の熱意に絆され役職”租税司の租税上”で新政府に勤める事になりました。
一方、栄一渡欧中の従兄弟達の運命は徳川将軍家に殉じるべく、なんと彰義隊に走ります。 以下従兄弟達の転変ですが、……
明治時代の大蔵省 現、大手町三井物産の敷地
     

 《渋沢喜作(成一郎)》  渋沢栄一と郷土を出奔し、共に一ツ橋家に臣事した喜作は幕臣として奥祐筆(徳川幕府の職名)となり、鳥羽伏見では軍目付で出陣、将軍の大阪敵前逃亡で残された幕軍兵士の江戸への退却に尽力し、帰還します。 時すでに幕府は崩壊し徳川慶喜は蟄居謹慎中、そこへ彰義隊結成の動きに参加、元奥祐筆の身分から彰義隊初代隊長に推される。のち副長天野八郎と離反し彰義隊を去り、新たに振武軍千二百名を興します。
江戸が制圧され飯能戦争から函館に転戦、榎本武揚や土方才蔵に加わり函館戦争に参加降伏、逮捕されますが、大赦により大蔵省七等で招請され出仕、欧米視察を経て、実業界に転進、生糸貿易、硫黄鉱山、十勝開発、共同運輸会社創業、東京商品取引所所長を歴任。大正元年(1912)75歳没。
渋沢平九郎(尾高平九郎)》  義父、渋沢栄一。 栄一は海外渡航による幕府規則で平九郎と見立養子縁組をします。…長兄尾高惇忠、渋沢喜作と共に彰義隊参加から振武軍へ、飯能戦争で黒山三滝の顔振峠で戦い自決します。
尾高惇忠(新五郎)(藍香)》 栄一の学問の師、水戸学に心酔し攘夷の為の高崎城占拠、横浜外人襲撃の密議に加わる。一転して彰義隊結成に参加し彰義隊の名称創案者。飯能戦争敗退して帰郷し明治三年に民部省に出仕し官立富岡製糸場設立に参加のち製糸場長。第一国立銀行仙台支店長、盛岡支店長を歴任しております。明治三十四年、72歳没。
ただし、旧尊皇攘夷者の惇忠が彰義隊に転換した過程理由は明確になりませんでした。
尾高長七郎》 栄一が尊皇攘夷に走った件に感化影響した従兄。江戸上京時に道中で事件を起こし受牢。維新後開放されるも病死、狂死とも言われる。
須永於莵之輔》 栄一が一ツ橋家に仕官し歩兵隊徴募構成を担当した時に一ツ橋家に臣事します。徳川慶喜蟄居にともない渋沢喜作に主家に身命をつくす企て、彰義隊の構想に参加を乞うた従弟。 明治維新後の行跡は不明です。
また、もし渋沢栄一徳川慶喜から渡欧を命じられず、大阪から江戸に退却したとして、面白い推理があります。……彰義隊遺聞 森まゆみ 新潮社……渋沢栄一は日本にいたなら、かなり高い確率で彰義隊の隊列に加わっていただろう。 事実、従兄の渋沢喜作(長じて成一郎、維新後は再び喜作)は彰義隊の最初の頭取であった。 須永於菟輔や参謀として関わった尾高藍香、すべて栄一の身よりの者である。 栄一の養子平九郎も同じ隊列にいた。 彼らはみな武州豪農の生まれである。……
…世の中、全く皮肉な事は徳川将軍直参旗本などと数百年の長き泰平を無為徒食し、幕府から莫大な禄をはんで来た世襲武士達はどこぞへか逐電、行方を晦ましてしまいます。 唯々新撰組を始めとした農民出身者の”誠”が目立つばかりでした。…
渋沢栄一に戻りまして、……大蔵省に出仕してみると、明治新政府の大蔵省は無為に多忙を極め右往左往するばかり、栄一はすぐさま組織機能の不全を看破して大隈重信に組織作りを意見具申するのです。 さっそく改正掛長を拝命し旧幕臣前島密、赤松則良、塩田三郎など有能な十数名を呼び寄せ、掛を充実、適材適所に活動させます。
大蔵省改正掛とは、なんと新政府の実務機能作りでもあったようです。租税改正、貨幣改鋳、度量衡の改正、 諸官庁の建設、鉄道施設、など旧幕府時代の慣例を一挙に世界基準にするわけですからスタッフの有能と熱意は想像に難くないでしょう。 この新天地でも栄一は才能を遺憾なく発揮して明治四年(1871)には大蔵大丞(現在の局長あるいは次官)に昇進しますが、なんと静岡から上京僅か二年足らずでこの役職に昇った事になります。。……次回へつづく…  ……前回へ戻る… 

渋沢栄一
(5) 王子飛鳥山
(4) 実業社会へ、大蔵官僚辞職の顛末(2017 02 20 訂正部分あり)
(3) 新政府出仕と従兄弟達の彰義隊始末
(2) テロリストから幕臣への道
(1) 幻の16代将軍徳川昭武と渋沢栄一