[歴史][地域] 足利氏と新田氏(1)−6 新田荘(群馬県太田市)

清和源氏を始祖とする足利氏と新田氏の出自の解明から太平記の武将として活躍した足利尊氏新田義貞につらなる話を色々と拾い読みしてみましょう。 
そもそも清和源氏とは56代清和天皇の子孫で最も栄えた河内源氏八幡太郎義家こと源義家武家の棟梁となり、その子孫から源頼朝義経などを輩出し鎌倉将軍家としても武家棟梁の家柄とされていました。その嫡流として新田氏や、室町幕府を興した足利氏など多数の武家清和源氏の子孫と称し武家本流の格式が出来上がったと考えられます。が、ここで一つややこしい問題が発生…戦乱の年月を経て武将松平家康が清和源氏の新田氏の子孫を名乗り朝廷の許しを得て徳川家康と改名し徳川幕府を興した伏線の話が存在いたします。   


新田荘の新田館遺構内”総持寺戻りまして、武家の棟梁”源義家八幡太郎義家)”の三男源義国は長子”源義重”に伝来の上野国八幡荘を継承させ、更に荒廃地を開墾して新田荘を開き新田氏を名乗らせます。次子”源義康”には足利荘を継がせ足利義康を名乗りますが、これが清和源氏同祖の足利氏、新田氏骨肉の争いに発展したターニングポイントとなりました。 それでは新田氏の本拠地新田荘とは…現代のアクセスは浅草駅を基点とする東武伊勢崎線太田駅太田市一帯ですが、関東地区では日系ブラジル人の働く街として有名、スバル自動車「富士重工業」の本拠地、更に云えば戦中派には有名な中島飛行機製作所の本拠工場です、当時の軍国少年を熱くした戦闘機など名機多数を製作した技術設備を継承した自動車工業地帯と云えます。


世良田東照宮…初代日光東照宮を移築した。
…さて、 源義国・義重父子が開発した土地「新田荘」の荘園本家として鳥羽院御願寺の金剛心院に寄進され、領家として藤原氏北家花山院流藤原忠雅が決まり寄進荘園が成立いたしました。この平安時代末期の保元2年(1157年)は未だに武家は朝廷から軽んじられた存在で新田父子の努力の開拓地も朝廷に寄進、荘園として召し上げられたのです。開拓者源義重下司に任じられ土地の実務を担い奉仕します。
この荘園「新田荘」を本拠とし義重は新田姓を名乗り新田家創始者が成立いたしました。新田義重には5人の男子がおり、「義兼」が新田宗家2代目を継ぎ「義俊」は里見郷、「義範」は山名郷、「義季」は世良田郷、「経義」は額戸郷を与えられそれぞれ郷名を姓として定着しますが、中でも問題は世良田義季です、新田荘の所在地太田市の文書では世良田義季を徳川義季と併記しており、現在徳川町も存在し、また色々な文書などに得川名も出てきますが、江戸幕府将軍徳川家康公はこの徳川義季が徳川将軍家の始祖と称し、自ら清和源氏の末裔、武家棟梁の家柄を自称しております。真実探求は後ほど……義季につきましては世良田郷開発で荘園の地頭に補任されており、さらに新田荘内の徳川郷も義季が開発し「をしきり郷」を徳川と改称し自ら徳川義季と名乗った経緯があります。…のちの徳川将軍家康公が僧天海を住職に任じ徳川義季が開基した長楽寺を復興させております。また家康公没後、二代将軍秀忠創建の初代日光東照宮は天海僧上発案により長楽寺境内に移築され現在の世良田東照宮になりました。数々の興味ある遺構につきましては追々話しを進めたいと思います。                  ……先へつづく…              
《足利氏と新田氏》
(6)足利市鑁阿寺、足利学校
(5)足利荘の成立と武家嫡流
(4)家康公の置き土産 群馬県太田市の大光院
(3)世良田新田荘と初代日光東照宮社殿
(2)新田氏後裔徳川家康公の経緯
(1)新田荘(群馬県太田市)