[歴史][地域] 足利氏と新田氏(6)−6 足利市鑁阿寺、足利学校
栃木県足利市は太平記の里、足利氏始祖の地として歴史遺構が大切に保存された文化観光都市として活況しております。
清和源氏の嫡流源義家(八幡太郎義家)は陸奥の安倍氏討伐以来東山道の要衝足利には縁がありましたが、彼の孫に当たる足利義康がこの地を荘園として領有した事で話しが始まります。この足利市には平安時代の武家屋敷跡の遺構がかなり良好に保存されております。が、更に元を正せば先住者の藤原姓足利氏の館跡説もあるようです。
鑁阿寺経堂と本堂(大御堂)…文化都市足利の二大看板は歴史遺構の鑁阿寺(ばんなじ)と足利学校です、この鑁阿寺境内が居館遺構に当たります。…この寺の起源と足利氏との関りとは、足利氏の始祖足利義康が方形約四万一千平方メートル周囲を水掘、土塁を廻らして居館としたのが、即ち現在の鑁阿寺(ばんなじ)境内敷地なのです。初代の足利義康は保元二年(1157)没しております。
…では何時からお寺さんになったか?、……義康の子、二代目の足利義兼は源頼朝の鎌倉挙兵に同族の誼で早速駆けつけて鎌倉幕府の有力御家人の地位を築き、建久六年(1195)に隠居出家し足利の居館に大日如来を本尊とした持佛堂(建久七年 1196)を建てたと言われております。
この時点で三代目足利義氏は幕府要人として鎌倉地内の館に定住したと考えられ、その後、天福二年(1234)に義氏は足利居館敷地に氏寺として大御堂(本堂)を建立、堂塔も建立整備し居館外に支院を設けて一山十二坊の大伽藍を実現します、以後幸運に恵まれて、この遺構は今日に残されました。境内の主要な堂塔伽藍は往時の姿を引き継ぎ保存され、国宝、国重文、栃木県文化財指定建築物群として境内に配置されております。
なお、足利氏が室町幕府を興し覇権者と成る過程で、鎌倉幕府執権北条氏との終始良好な縁戚関係が留意される特質で、有力御家人としての地位が安堵されていました。…足利氏二代目義兼は頼朝の妻女、後の尼将軍こと北条政子の妹、北条時子を正妻として、足利氏代々の正妻は北条氏との縁戚関係にありましたが、戦国時代の無情な掟、下克上、同族の相克は容赦なく、後醍醐天皇の挙兵に際して、足利尊氏の寝返りは北条氏結末の帰趨だったのです。
孔子廟と足利学校
……鎌倉幕府崩壊のキーマンだった尊氏は生母が父足利貞氏側室の上杉氏の女で、次男です。正室の北条顕時の娘が産んだ長男足利高義は早世し、代わって尊氏が足利氏の嫡流となりましたが、北条氏が生母でない数少ない立場の人物でありました。……
…鑁阿寺の詳細はバックナンバー「足利氏鑁阿寺」http://d.hatena.ne.jp/hakyubun/20131117/p1 を御覧いただく事にいたしまして、境内建築物文化財の概要は 『国宝』…本堂(大御堂) 『国指定重要文化財』…1.鐘楼、2.経堂(一切経堂) 『栃木県指定文化財』…1.多宝塔、2.楼門、3.東門及び西門、4.御霊屋、5.太鼓橋 など。
では、足利市もう一つの顔…足利学校は…子供の頃学校で習ったのか、全く大雑把でありました、20年程前に鑁阿寺拝観の折、私は大掛かりな古代建築再建現場を見ておりますが足利学校復元工事だったのです。と云う訳で学校部分は現代の再建物ですが、学校入り口正面の孔子廟は江戸期遺構建築物で時代の重みか圧巻といえます。
ちょっと寄り道…東京御茶ノ水の孔子廟湯島聖堂は5代将軍綱吉の手によるものですが、関東大震災後、著名建築家「伊東忠太」設計の大成殿が再建されておりますが、現代工法の不燃化建築物ですが、時代の壁を超越できた芸術性があり、見応えのある建物と云えると思います。なお、伊東忠太の東京周辺宗教系建築物として明治神宮、靖国神社神門、築地本願寺、中山法華経寺聖教殿、大倉集古館 孔子廟湯島聖堂、東京都慰霊堂を設計しております。
足利学校の概要(足利市役所、記事より)……足利学校の起源については、国府野にあった国学にはじまるとされる説や国学遺制説、小野篁創建説、足利義兼創設説、足利尊氏設立説など諸説ありますが、文献上でその具体像が明確になるのは、関東管領の上杉憲實が足利学校に学則を示し、書籍を寄進してこれに関与と庇護を与えた15世紀初頭以後のことです。以後、長尾氏や後北条氏、徳川幕府らの庇護を受け、継承され現在に至っています。 ……おわり… ……前へ戻る…
《足利氏と新田氏》
(6)足利市鑁阿寺、足利学校
(5)足利荘の成立と武家嫡流
(4)家康公の置き土産 群馬県太田市の大光院
(3)世良田新田荘と初代日光東照宮社殿
(2)新田氏後裔徳川家康公の経緯
(1)新田荘(群馬県太田市)