[歴史][地域] 足利氏と新田氏(5)−6 足利荘の成立と武家嫡流、 

武家の棟梁”源義家八幡太郎義家)”と足利との係り、当時の世情は朝廷の権威が持続していた時代を前提に始めます。父親の源頼義が勅命による陸奥安倍氏の討伐戦に義家も参戦した「前九年の役」や「後三年の役」(永承6年、1051〜寛治1年、1087)の間にしばしば東山道の要衝の足利を通過して、この地に縁があったとされ、義家創建の八幡神社なども存在します。
前九年の役後、下野守(延久2年頃、1070)に任じられた義家は、荘園上野国八幡荘(碓氷郡)を所領しております。足利につきましては既に足利成綱、足利家綱を名乗る藤原姓の領主がおり、その始祖は藤原秀郷と云われます。過って新皇を自称する「平将門」の乱を討伐した功で朝廷より従四位下を賜り下野・武蔵二ヶ国の国司鎮守府将軍に叙せられた武家名門の流れです。

清和源氏

しかし、この藤原姓足利氏はその所領を”下野守”源義家に差出し下司職に任じられ土地の支配に専念します。だが、片一方が膨らめば、片や引込む原理は後にトラブルも起こりますが、その後に藤姓足利氏身内の争いが起こり、その過程で源頼朝に滅ぼされ一門内では頼朝に帰順して御家人などに為っております。…
…戻りまして、義家の四男、源義国は父”義家”より上野国八幡荘と足利領を伝授し下野に土着したとされ、義国は彼の長男義重に主領地の上野国八幡荘を次男義康には康治1年(1142)荘園が成立した足利荘を継がせ、義国自らは新田領に住み長男義重と開拓領主を目指します。新田荘は保元2年(1157)荘園が成立し義重は新田荘の下司職に任じられます。……
さて、新田氏と足利氏の同祖は清和源氏ですが、南北朝の騒乱で敵味方に分かれ足利尊氏のまえに新田義貞の戦死、子息義興、義宗も武蔵野合戦に敗れ共に殺害され、ほぼ壊滅します、一方足利氏は二代目義兼が源頼朝旗揚げに呼応し鎌倉に駆けつけて鎌倉幕府の有力御家人として力を蓄え遂に足利尊氏武家の棟梁として室町幕府を開き征夷大将軍に任じられ更に第3代将軍足利義満清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の足利将軍家清和源氏嫡流と考えられます。時代は推移し新田氏後裔(事実不明)とされる徳川家康による徳川幕府の成立で家康公が最初に源氏長者に任じられ各代将軍がつづき、清和源氏嫡流徳川将軍家に引き継がれました。家康公は「源朝臣家康」、十五代将軍徳川慶喜は「源朝臣慶喜」を正式名としております。



左から、 新田氏紋 足利氏紋 徳川氏紋
が、ちょっと変ですね、常識的には嫡男、嫡子の血筋が嫡流です…正妻との間に生まれた長男、嫡男(嫡子)が継承した系統ですが、私などは現代の定義をごっちゃ混ぜしているのでした。同氏族内での身分の高さ、究極の幕府将軍や武士長者などが嫡流を決める資格であり、一般的な嫡流とは同意義ではない様です。
気が付いた事は川の本流の変遷と同じ事、……江戸幕府利根川常陸川の流路を利用した銚子放流に付け替えました(現、利根川)が、江戸後期でも幕府文書では旧流路の江戸川筋を相変わらず利根川と記したり、一般でも小林一茶が流山の秋元双樹宅滞在時の句に江戸川を「刀禰川は寝ても見ゆるぞ夏木立」と詠んでいたり正式に利根川流路が決まった時期は分かりません。また、荒川も同じ事、荒川本流は隅田川筋でしたが、更地を新規掘削した河口までの22kmの人工流路の荒川放水路に付け替え機能の完成が昭和5年(1930)ですが、現在は荒川本流と公称される有為転変です。その目的は別として『人工』の代表として「河川」の荒川、「家系」の徳川家康徳川将軍家を並べる事ができます。……
……足利氏と新田氏の間でも往時の話か現代の話か知りませんが清和源氏本流(嫡流)論争を聞きましたので、時間潰しのお話でした。
   ……先へつづく…  ……前へ戻る

《足利氏と新田氏》
(6)足利市鑁阿寺、足利学校
(5)足利荘の成立と武家嫡流
(4)家康公の置き土産 群馬県太田市の大光院
(3)世良田新田荘と初代日光東照宮社殿
(2)新田氏後裔徳川家康公の経緯
(1)新田荘(群馬県太田市)