[歴史] 足利氏と新田氏(2)−6 新田氏後裔徳川家康公の経緯
前回の経過は…清和源氏の嫡流から新田氏、足利氏が成立して新田荘、足利荘に定着しそれぞれ新田、足利姓を名乗ります。今回の主題部分として…新田氏(義重)は更に嫡流と普系に分かれ、その一つが徳川(得川)郷の徳川姓を名乗る世良田義季こと徳川義季に辿りつきました。…
先日は陽光に誘われて新田荘の所在地群馬県太田市を探訪してまいりました。名に聞こえたスバル自動車富士重工業の本拠地で、昨今はアメリカ市場の人気車種として国内自動車業界4位の実利を上げております。 が、探訪の目的は徳川家康公が新田氏の始祖と崇めた新田義重を祀るために呑龍上人を招聘し慶長18年(1613年)に創建した大光院義重山新田寺です。旧本堂、方丈、庫裏など創建時の姿が残されている大伽藍があり、昔の方には太田の子育て呑龍さまと御存知かも、なお呑龍上人は現在の埼玉県春日部市一ノ割在ご出身です。…大光院は後ほど新田荘歴史遺構探索でご紹介いたしましょう。
前回の新田義重の嫡流新田義兼は子孫が新田義貞へと続きますが、では本題の庶流の徳川義季(世良田)追跡を始めます。……分かりやすく系図を頼りに話しを進めますと徳川義季(世良田)の嫡流は義季→頼氏→教氏→家時→満義→政義→親季→有親→親氏→…と続いて、途中の政義までは記録があり、政義に関する内容とは…観応元年(1356)足利幕府将軍足利尊氏が弟の直義と内紛(観応の擾乱)を起こし、これに政義が足利直義に加勢して敗れて幕府に追われる身となり、徳川郷(をしきり郷)も没収される破綻をきたします。それから事後の結末は記録が不明とされております。 また、系図上の”政義”以後の親季→有親→親氏に関する確たる所在の記録は存在ぜず曖昧な記述ばかりが残されており、一面的には徳川氏(世良田)断絶とも考えられますので、系図上のこの部分はグレーゾーンとして記憶されるようにお願いします。なお、遅れましたが使用系図は清和源氏新田氏普系徳川義季を始祖とする徳川家康公系図が論点の基本としてあります。 それでは徳川(松平)家康公の旧姓松平氏系図を調べますと始祖を松平親氏としてあり、上記の徳川氏(世良田)系図の最後にある徳川親氏と同一人物です。その理由は後述として、松平氏嫡流を追ってみましょう。…松平親氏(徳川親氏)→泰親→信光→親忠→長親→信忠→清康→広忠→家康……松平親氏については徳川親氏と同じく確たる歴史記録はなく俗説的な共通の趣旨に話が定まっております。二代目の泰親も資料が無く三代信光に至り.始めて応永8年(1401)〜長享3年(1489) 89歳没に関する記録などが見られ、以後家康に至るまでほぼ記録が残されています。と云うわけで松平氏と徳川氏(世良田)共通の親氏を挟み数代に亘って確たる記録もなく存在自体に疑義が生じるグレーゾーンが重なりました。この空白を利用し松平氏と徳川氏を結ぶカップリングが徳川親氏と云う確たる記録の無い人物が登場し、登場させ?、その前後の人々もバッファー役として松平系図と徳川系図の間に入り無事回路をONにする事が出来、清和源氏の後裔徳川家康征夷大将軍は武士の棟梁に相応しい出自が構成されたのです。では核心的な俗説……徳川親氏が松平姓を名乗る経緯とは…世良田東照宮の出版物からの要点…徳川親氏は祖父親季、父有親と共に武蔵野合戦で新田義貞の子、義興、義宗兄弟の新田勢に加勢し足利尊氏軍に敗れ信濃から三河に入り三河国足助の荘へ敗走、更なる幕府軍の厳しい追捕をかわす為に親氏は在原信重の娘を娶り松平郷に土着して姓を松平と改め松平親氏として松平氏の始祖となった話です。その他の逸話には足利軍に敗れた徳川親氏は出家して徳阿弥と称し三河に入り在原信重の婿養子となり松平郷から松平姓を名乗る話もあります。……この徳川氏(世良田)の断絶系図を誰が松平家康に持ち込んだのか?、という推測話…吉良上野介の先祖足利氏傍系吉良氏か、…などと結構花を咲かせている様子は、歴史とは推理なのかと思わせる一面もあります。 ……先へつづく… ……前へ戻る…
《足利氏と新田氏》
(6)足利市鑁阿寺、足利学校
(5)足利荘の成立と武家嫡流
(4)家康公の置き土産 群馬県太田市の大光院
(3)世良田新田荘と初代日光東照宮社殿
(2)新田氏後裔徳川家康公の経緯
(1)新田荘(群馬県太田市)