[幕末][事件事故] 水戸天狗党 (4)−6  水戸藩2足の草鞋で悲惨へ

水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男一ツ橋公慶喜天狗党追討軍総大将として…『流言、浮説にまどうことなく無二念(容赦なく)追討鏖殺(みなごろし)いたし候様』と下知して待ち構へております。そこへ神君と仰ぐ徳川斉昭位牌の神輿を伴ない慶喜公を一縷の燭光と頼り京都へ彷徨う天狗党一統の願望の果てとは……
雪深い山間、敦賀の新保村で一万余の追討軍に包囲された天狗党勢は進退窮まり…何時の間に変わったのか?、「幕府にお手向かいする意図は元よりなく9代藩主斉昭の縁者一ツ橋公慶喜に嘆願の筋あり」と通行させる様懇願の書を加賀藩先鋒隊に示します。 だが武田耕雲斉に届いた返書には加賀藩出兵の理由は天狗党追討総督一ツ橋公慶喜の御命令なり「是非なく一戦に及ぶべき存寄に御座候」…天狗争乱 吉村昭よりとあり、ここで初めて一縷の望みが崩れ去り窮極の立場を知らされました。…更に慶喜は投降した天狗党一派の生死を賭けた嘆願書にも関知せず京都に帰還しますと幕府追討軍総括田沼玄蕃頭が京都に到着、慶喜から公儀に逆らった天狗党一統を受領しました。
……しかし、ここで一ツ橋公徳川慶喜の立場として父水戸藩主斉昭の仕掛けた水戸藩から将軍世嗣になる目的があり、15代将軍の座は眼前に在ったのです。ところが、御三家と云えども斉昭の粗暴、横暴は江戸城では忌み嫌われ、尊王思想は将軍家を売る二心あり『二心公』などと囁かれていたのです。
その尊攘思想を継承する慶喜の将軍就任を潰す謀略が薩摩藩の西郷などにより流布されます。…武田耕雲斉と同類の慶喜の追討総督就任は天狗党を救済する目的の行為で、実は武力制圧は慶喜の心情に叛くことと追討各藩に宣伝をした経緯があり、必至の慶喜は『流言、浮説にまどうことなく無二念(容赦なく)追討鏖殺(みなごろし)いたし候様』の督戦令となっています。 また、慶喜天狗党追討願いも幕府に根ざす『二心公』疑惑を払拭の必然行為だったのです。
降伏した天狗党823名は加賀藩の手で敦賀の町に移されますが、京都から幕府田沼玄蕃頭が到着簡単な吟味の結果断罪が行なわれ、斬首352名その他は遠島、水戸藩預けなどの追放で決着しました。
なお首謀者武田耕雲斉、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎などの首は塩漬けにし江戸を経て水戸に送られ獄門懸けにされ、武田耕雲斉の捨て札には『藩の重職にありながら、山国、田丸、藤田と攘夷を口実に「数百人を語らひ国々所々放火金策し」戦争を指揮して幕府軍水戸藩軍に敵対し、お城に発砲した。その後脱走し、同様の悪行をつづけ、歴代の藩主の御恩を忘れ、幕府を恐れぬ「積悪大罪」は比類のない「言語道断」のもので、ここに引きまわしの上晒しとするものである』…天狗争乱 吉村昭よりこの引きまわしは那珂湊の街でも行なわれた後取り捨てられます。……
既に威令の衰えた幕末と云えども捨て札の如く公儀に逆らい千名余りの武士集団が幕軍や各藩と交戦し練り歩いた所業は戦国覇権者、武家の頭領徳川幕府に於いては重罪は避けられないものでしょう。
では天狗党を振り返って見ますと藤田小四郎の余りにも独断狭量の思考の脆弱が目立ち、若輩の誹りは免れず、筑波蜂起後の御用金盗で近隣諸国を荒らしまわった迄が勢いで、幕府の追討令後は逃亡集団と成り果て、武田耕雲斉に抱きつき後、降伏、敦賀の取調べではなんと、…門閥軍と戦い、幕府軍が加勢している事を知り、畏れ多い事と降伏した。…とは情けない話で、ワラジを履き替えれば通用するとでも考えたのか?……
合併天狗党の大将武田耕雲斉は水戸藩家老執政を経験した尊攘派重鎮でありますが、水戸藩名代宍戸藩主松平頼徳一行に抱きつき、水戸城入城に失敗、幕軍と交戦敗走後、唯の御用盗集団に堕した天狗党に抱き付かれ、耕雲斉窮余の一策は一ツ橋公慶喜に抱きつきを画策しますが失敗、結果は賊魁として処分される悲劇に終わりました。この壊滅した天狗党事件が複雑で難解なのはこの一派の抱きつき抱きつかれる体質が入り乱れる事でしょう。 新しいワラジに履き替えれば通用するのではと無責任体質かも知れません。……
徳川三家水戸藩の惨鼻の事件の本番は十五代将軍徳川慶喜大政奉還大阪城敵前逃亡、蟄居謹慎で官軍の奔流は江戸を席巻しますと、水戸藩京都本圀寺在留水戸藩士は公家三条実美から水戸藩奸党(尊攘派以外)討伐の勅許を取得して水戸を目指します。その中に武田耕雲斉の孫武田金次郎が加わり同行、水戸帰郷後は徒党を組んで天下御免の勅許を翻し水戸の街はテロリストの殺戮惨禍で血塗られました。 その間門閥派市川三左衛門の弘道館占拠、処刑などで混沌とした水戸にも明治4年7月廃藩置県により水戸縣知事徳川昭武の下に参事山岡鉄舟、裁判所長山田信道(旧熊本藩士、農商務相)を揃え法規国として秩序を回復の兆しが生まれました。……
 …悲劇の根源とは徳川家康公の三家水戸藩尊王主義との二足のワラジを履き、更に9代斉昭の代に藤田東湖の朝廷の神格化思想は情緒的、宗教色の神懸り的な思想が政治を侵食して現代の中東イスラム宗教闘争に類似したテロ化の連鎖うねりが殺戮の相乗効果になったのでしょうか?、……
…などと臆面も無く書いたり致しましたが、基より江戸時代真実の歴史を知る由も無い現代人として先人の残したものに頼るしかなく、正史は奈辺に在るのか?、…ましてや歴史小説などを頼りに自分のペースで推理したものに過ぎません。 悪しからず。  ……先につづく…    ……前へ戻る

《水戸天狗党
(6) 栃木宿 凶行の経緯
(5) 栃木市の痕跡 太平山
(4) 水戸藩2足の草鞋で悲惨へ
(3) 自滅 飛んで火にいる夏の虫
(2) 尊王水戸藩の真実
(1) 天網恢恢 田中愿蔵始末記