[人物][歴史]  渋沢栄一(2)−5 テロリストから幕臣への道

前回は渋沢栄一の出自と百姓を辞める決意に至る経緯を自叙伝から読み取りましたが、渋沢家は同族のよしみが強く、栄一の波乱万丈な幕末から明治維新の時代、多くの従兄弟達とも影響しあい、時代に揺れた有為転変は同族の男達個々の人生でも、各々が物語になる位です。栄一が渡欧中の従兄弟達の曲折は特に激しく、当初は世情に流れ、尊皇攘夷に走ったのですが、一転、瓦解した徳川将軍家擁護の”彰義隊”創設にも重要な立場で加担する運命、更に再転し明治維新後の社会近代化では能力を発揮いたします。
  
渋沢栄一 (文明開化のあでぼの 戸定歴史館刊)  

渋沢栄一が狂気の尊皇攘夷に走った理由……自叙伝「雨夜譚」(あまよがたり)には、その理由を ”一体すべて官を世々するという、徳川政治”と述べ、幕藩体制と武士階級全般の世襲による長き積弊と沈滞腐敗の末期的症状を呈し、諸侯や陪臣武士階級でさへ世直しの風潮になり、混乱を極めた世情が読み取れました。
以下の略図は栄一の人生に係わった従兄弟達の関連。
    
すでに従兄長七郎は江戸に出て儒学塾や剣道場に通い一端(いっぱし)の尊皇攘夷を語る憂国家になり、これに刺激された栄一も農閑期に江戸に出て塾やお玉ケ池千葉道場などにも出入りし学のある惇忠、剣士長七郎の尾高兄弟に感化されてか従兄弟達は尊王攘夷の志士として幕末混乱の社会に介入する決心をして途方も無い攘夷断行の計画を始めます。
その企画とは……尾高惇忠、渋沢喜作、渋沢栄一三者で密議をこらした一案とは、文久三年十一月二十三日、同士六十九人は刀で武装、竹槍を手に手に高張り提灯を押し立てて高崎城に夜討ちを掛けて占拠する。 ここから鎌倉街道を一挙に南下して横浜外人居留地を焼き討ち襲撃し外国人とみたら片っ端から斬り殺すという計画でした。 なにやら近年に中東周辺国で起きる外国人殺害テロやアルカイダも斯くやと思えます。
…と余りにも粗暴ずさんな計画は明治の先覚者渋沢栄一のイメージと乖離した話で、ちょっと現実感がわきませんが当時の世情が直情的に行動してしまう風潮だったのでしょうか。
”雨夜譚”でも栄一は述べております。……ずいぶん乱暴千万な話に相違ないが、これがもし果たしてその時に実行したことなら、自分らの首は二十三、四年前に飛んでしまったであろう。……
幕末、在留外国人殺害の計画者の思想は攘夷断行を迫る孝明天皇の勅旨を躊躇(ちゅうちょ)する幕府に対し、外国人大量殺害で鉄槌をくだして、徳川幕府を諸外国と断交、交戦に追いやり洋鬼の害から神州を守る義挙という理屈です。幕末に尊皇攘夷を掲げ全滅した水戸天狗党や攘夷を唱える水戸学を奉持する志士達と共通の思考でした。
ところが、既に幕吏の追手を逃れ、京都滞在の尾高長七郎を義挙決行協議に呼び出しますと彼は強硬に計画破棄を主張します。京都に在って得た見聞からも、これでは精々百姓一揆の程度で代官屋敷襲撃ぐらいの威力しかない暴挙だ、命を無駄にするな、刺し違えてでも絶対阻止すると中止を懇願されたのです。一同喧々諤々の議論の結果は…遂に冷静さを取り戻し九死に一生を得ることが出来たのでした。
家長である惇忠と久しぶりの帰郷の長七郎を残し栄一と従兄喜作は動乱の地京都を目指すことになりますが、
…更に栄一の強運は歯車の如く動乱にシンクロナイズされ加速されて行きます。 予ねて栄一達は決起計画を水戸藩主斉昭を父とする一橋公徳川慶喜こそ攘夷の最大の理解者と考え、秘事計画を慶喜側用人の平岡円四郎を訪れ打ち明けていたのですが、この途方も無く無謀な話に驚くも、先ずは人物、胆力を見分けたのか、平岡円四郎は栄一達に一橋公に仕官を勧めていたのです。
京都に上洛した栄一と喜作は既に京都に滞在する平岡円四郎に挨拶し、出入りするうちに二人の仕官が決まります。 初めて奥口番の役名で仕官奉公した栄一の感慨は如何でしょうか、雨夜譚より。
……一ツ橋家には御用談所というものが出来て居て、ちょうど諸藩でいう留守居役所のようなものであったが、両人ながらその御用談所下役に出役を命ぜられて、辛くも奥口の詰番を免れたのは誠に幸福であった。……実は仕官の身というのも何か気恥ずかしい訳だけれども、そうなって見るとまた相応な欲望も自惚れも出るから、したがって楽しみも生じて来る訳だが、初進のうちは別して謙遜して勉強せんければならぬという考えで、両人申し合わせて昼夜精勤しました。……
熱意と能力資質、少年期から発揮した商才の三拍子が揃えば仕官にも追々成功し一ツ橋家所領の財政改革、守護歩兵の徴募、構築など水を得た魚の如く精勤します。
一方主君一ツ橋公徳川慶喜将軍後見職から慶応二年(1866)十五代将軍に就任、やがて幕末大波乱の終局をむかえますが、栄一も運命に導かれるまま、志とは対極の徳川幕臣に身を変じておりました。この僅か数年の間に渋沢栄一職掌として大きな変事にも遭遇しているのです。
天狗党殲滅の事件です。 武田耕雲斎、藤田小四郎の指揮する尊王攘夷派の水戸藩天狗党幕府軍”田沼玄蕃頭”に追われながら徳川慶喜の取り成しを一縷の望みと頼り、京都へと彷徨するのですが、禁裏守衛総督であった一ツ橋公慶喜は、平然とこれを逆賊と断定し……流言、浮説にまどうことなく無ニ念(容赦なく)追討鏖殺(みなごろし)いたし候様……という指令を発しました。 渋沢栄一も一ツ橋家用人の陣中秘書記として出陣しており、結果この天狗党加賀藩隊に投降しますが、慶喜は全員を幕府軍に引渡し352名が斬首されました。
昭和の初頭、かの二二六事件で天皇親政を掲げた反乱軍将校が軍法会議で銃殺されますが、その事件で昭和天皇の対応とよく似た経過は「貴人情を知らず」と云うところでしょうか!。
序でにもう一つ、渋沢栄一新撰組局長近藤勇との接点、……
幕臣になった栄一は陸軍奉行支配調役なども勤めますが、幕吏の中の謀反人捕縛に立ち会う役目が舞い込み、執行者新撰組局長近藤勇と容疑者捕縛を協議しております。 その時、栄一の安全を危惧した近藤勇は栄一に待機を進めたのですが、見栄を張って同道した話などもありました。
成行きとは云え幕臣となった自分に悶々とするなか、渋沢栄一の人生最高のサクセスロードが突如開かれます。
将軍徳川慶喜側用人原市之進(恩人、平岡円四郎はすでに水戸藩士に暗殺された)から呼ばれ1867年のパリ万博に参加招請ナポレオン三世から幕府にあり、ついては将軍(大君)の名代として慶喜の弟水戸徳川家の昭武を派遣方々欧米留学をさせるので、その身辺に渋沢栄一を付ける旨、将軍徳川慶喜直々の御沙汰である旨伝えられます。。……次回へつづく…  ……前回へ戻る… 

渋沢栄一
(5) 王子飛鳥山
(4) 実業社会へ、大蔵官僚辞職の顛末(2017 02 20 訂正部分あり)
(3) 新政府出仕と従兄弟達の彰義隊始末
(2) テロリストから幕臣への道
(1) 幻の16代将軍徳川昭武と渋沢栄一