[幕末][事件事故] 水戸天狗党 (3)−6  自滅 飛んで火にいる夏の虫 

私は一時那珂湊に寄留した事があり水戸の街にも立寄った記憶では千波湖偕楽園周辺は風光明媚、文化財も魅力のある場所です。
天狗党事件を切っ掛けに幕末の水戸藩内が二分して血みどろの殺戮合戦に終始した事実に、なぜか?、口をつぐむ水戸の人が不思議に見えました。 丁度現代のイラクなど中東でイスラムシーア派スンニ派の対立殺戮を水戸藩内抗争に見て取れるのですが、水戸藩に臣事する武士同士のテロは更に性質の悪い抗争と云えるでしょう。…唯の思想対立と割り切っているのでしょうか?…、
     
水戸黄門奥座敷 水戸藩別邸那珂湊夤賓閣跡

ささやかな私のたどり着いた、その争点とは水戸藩士の生活権の確保か喪失か、という生死を分かつ争いなのです。9代藩主徳川斉昭の就任で藩要職から門閥派を一掃追放し尊攘過激派藤田東湖などで占めるクーデター的徹底人事が行なわれております。何百石の藩士を一転二人扶持、三人扶持に追込むものでした。 …云われる無能重役達の追放などではありません。藩財政の足枷、元凶は二代藩主光圀の始めた史誌編纂事業が藩経費の三分の一以上を浪費して治世の劣化、藩士の窮乏を強いて、農民は過分の収奪をされた事実を確認すべきなのです。 …幕末藩内抗争の元を正せば斉昭の恣意的思想と行動から藩士の対立、…食えるか、否かの陰惨な藩内闘争を招きます。戦前思想の概念…尊王→志士→正義…で済ませる問題ではないのです。…

小石川水戸藩邸旧勅使門移築 那珂湊水戸藩反射炉入り口
……さて、天狗党追跡は田中愿蔵の始末まで話が進みましたが、今回は本隊に移ります。 那珂湊を脱出した、藤田小四郎の天狗党尊攘派武田耕雲斉一派が共に久慈川上流の大子村に集結し軍議が始ります。両派が合同し一集団で今後を打開する決着をしますが、しかし残された選択肢は要害大子に立籠もり徹底抗戦か幕軍追尾を逃れ放浪逃避の途でした。…主題たる起死回生の行動目的の良案は見つからず膠着に陥ります。
突然、武田耕雲斉の口をついた言葉は『徳川慶喜様の許へ参ろう』でした。武田と慶喜との接点は十三代将軍家慶の後見職として京都出仕の一ツ橋公慶喜から水戸藩武田耕雲斉は同行を求められ水戸藩士6〜7名と共に京都で仕えて居り、慶喜の父9代水戸藩主斉昭の執政を勤め尊皇攘夷派の重鎮でもありました。……その後慶喜天皇を護る元締め禁裏守衛総督の職にあり京都に在住しております。…
……藤田小四郎を初め軍議のメンバーの顔には喜色、目は輝き『慶喜様の許へ参ろう』と衆議は一決し、改めて総大将に武田耕雲斉を初めとして各役職、隊長を選出、更には厳しい軍律を決定、早速京都を目指します。…幕府公儀に逆らう賊魁として幕府軍の追討を受ける天狗党約一千名の断罪を逃れる一縷の希望が徳川慶喜に託されました。……
…京都を目指した行程二百里、11月1日大子村を出発し黒羽、大田原、宇都宮、葛生、大田、本庄を経て中山道を西進し岐阜県各務原市の美濃鵜沼宿では進軍方向の長良川対岸に幕命により彦根、大垣、桑名の諸藩が布陣待ち受けるのを察知し、突破を避け北上して越前に迂回を試みます。11月27日の事です。……ここまでの行程では歴戦の天狗党に対し山間諸藩は藩兵も少なく藩主は江戸滞在で留守、殆どが城下町迂回を条件に金品の提供と間道案内で通過を黙認します。 しかし京都周辺には雄藩が割拠し天狗党の進軍は一挙に暗雲が立ち込めるのです。……
しかも、天狗党にとって路程百里の山野彷徨のゴール京都では驚天動地の事が起きていたのです。…何んと一縷の光とも頼んだ一ツ橋公禁裏守衛総督徳川慶喜が元治元年11月29日朝廷に自ら天狗党追討出陣の御許可を申し出認められたのです。早速弟の松平昭徳(徳川昭武11歳)を水戸藩先鋒隊に任命、加賀、会津、小田原、福岡と京都所司代軍で追討軍を編成出陣します。…一ツ橋公慶喜の家臣渋沢栄一は用人陣中秘書記、栄一の従兄渋沢成一郎も探索役で参加。
天狗党一派は最後の力を振り絞って千尋の谷、吹雪の峠越えで敦賀市の新保村に辿り付いた時には追討軍総大将慶喜に従う各藩兵一万名により包囲され雪中の窮鼠と化します。更に哀れは200里の山中放浪は何であったのか?…徳川慶喜は追討軍に対し『流言、浮説にまどうことなく無二念(容赦なく)追討鏖殺(みなごろし)いたし候様』…吉村昭 天狗争乱記事より
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《水戸天狗党
(6) 栃木宿 凶行の経緯
(5) 栃木市の痕跡 太平山
(4) 水戸藩2足の草鞋で悲惨へ
(3) 自滅 飛んで火にいる夏の虫
(2) 尊王水戸藩の真実
(1) 天網恢恢 田中愿蔵始末記