[時事][地域] 富岡製糸場(1)−3 発足と群像

世界文化遺産群馬県富岡製糸場の登録が必至とマスコミが賑っております。確か昭和30年代に自動車で峠越えする途中富岡製糸所正門前を通過赤レンガのクラシックな大工場が記憶に残っておりました。 片倉富岡製糸所はその後、昭和49年度が生産高では発足以来の記録を残しております。
    

既にナイロン華やかな時代でも天然生糸の需要はそれなりに在ったのですが、発展途上国のマーケット参加により遂に昭和62年(1987)片倉工業は工場閉鎖に踏み切りましたが、会社はこの重要文化財とも云える建物群を隠蔽状態で公開をシャットアウトし続けます。……当時の富岡市今井清二郎による日本近代化屈指の文化財保存公開の主張と群馬県知事小寺弘之による世界遺産登録の意思が示され遂に富岡市群馬県片倉工業三者協議が決着、片倉は土地の売却に応じ建物群は無償譲渡で決着、平成17年(2005)この近代化遺構は富岡市の管理に落ち着きます。 この先覚の自治体首長の力が結実し今日の栄誉があるのです。 一方片倉工業は会社の浮沈の瀬戸際、生糸産業の壊滅に遭遇し唯一の経営資源工場跡地の文化財注目を迷惑覗したのか?、干渉を嫌い処分権のフリーハンドに固執していた様です。 私は片倉工業時代に一部分の敷地の公開が富岡市の要望で行なわれ参観しましたが、写真の撮影禁止を要求されます。ガイド役の学校校長会の方は…”あの草むしりの人が片倉の留守番管理者ですが見えない処での写真ならば私は知らない事にしております。”と……お蔭で掲載写真はその時のものです。

なお、官営時代の赤レンガ倉庫など巨大建物が建築時のまま残されているのが世界遺産に繋がる重要な部分ですが、その経緯から会社が積極的に重要文化財として留意した結果なのか?、自社転用企画に窮したのか?、は不明です。 また、当時の文化庁と云うお役所も重要文化財指定を嫌う片倉工業に同調しており、自治体に売却後の平成18年になってから始めて重文指定をする疑惑の行動をしております。……
その片倉工業の現状は不動産業なのか?、多数の地方都市の製糸工場を再開発してショッピングセンター、ホームセンター等で業績をあげており、埼玉新都心駅前の工場跡地は大型SCコックーンや東京京橋旧本社ビル周辺の再開発東京スクエアーガーデンなどもあります。……
富岡製糸場の所有者の経過。
明治5年(1872)〜明治24年(1891)…19年 官営富岡製糸場
明治24年(1891)〜明治35年(1902)…9年 三井富岡製糸所(三井家)
明治35年(1902)〜昭和14年(1939)…37年 原富岡製糸所(原三渓
昭和14年(1939)〜平成17年(2005)…66年 片倉富岡製糸所(片倉工業
平成17年(2005)〜                  群馬県富岡市
それでは官営富岡製糸場発足に至る経緯を調べてみます。……
先ず明治初期の日本近代化の源泉から調べますと江戸幕府大老井伊直弼の開国に始まる西洋近代知識を学び取った幕臣渋沢栄一小栗忠順など努力の発露結実である事は確実です。 明治初年日本の唯一の輸出資源「生糸」の品質向上を計り外貨獲得を目的として西洋近代製糸設備の導入を計り時の大蔵大輔 大隈重信や大蔵小丞渋沢栄一などが協議導入計画を立てます、当然産業革命後の西洋に滞在した渋沢栄一のリードが当然で、計画実行後の初代所長には栄一の義兄尾高惇忠をあてています。計画の設計施工の任は幕府と親交のあったフランス公使館を通し小栗の横須賀製鉄所のフランス人技師エドモンド バスチアンに設計を、施工運営にはフランス商館の生糸検査人ポール ブリューナを招聘しました。 ではブリューナとくみ日本の資材と職人による赤レンガ倉庫や工場を立ち上げた尾高惇忠とはどんな人物か?、……
彰義隊に加わった渋沢栄一の従兄弟達から……
「尾高惇忠」
渋沢栄一の義兄で学問の師、明治元年彰義隊結成に参加、彰義隊の名称創案者ですが後、新たに振武軍結成、官軍との飯能戦争敗退、この時渋沢栄一の養子渋沢平九郎が黒山三滝の顔振峠で自決しております。戦に敗れ帰郷しますが、明治三年に民部省に出仕し渋沢栄一計画の官立富岡製糸場設立に参加、のち官営富岡製糸場長。第一国立銀行仙台支店長、盛岡支店長を歴任しております。明治三十四年、72歳没。
渋沢成一郎(喜作)」
渋沢栄一と郷土を出奔して一ツ橋家に臣事、のち幕臣として奥祐筆(徳川幕府の職名)となり、鳥羽伏見では軍目付で出陣、将軍慶喜大阪城敵前逃亡で残された幕軍の東帰へ尽力し江戸へ、すでに幕府は崩壊し徳川慶喜は助命謹慎中、そこで彰義隊結成の動きに参加、元奥祐筆の身分から彰義隊初代頭取に推される。のち彰義隊を去り振武軍千二百名を興します。…官軍に江戸を制圧され飯能戦争からさらに函館に転戦、榎本武揚や土方才蔵に加わり降伏逮捕されるが大赦後に大蔵省七等で招請され出仕、欧米視察を経て、実業界に転進、生糸貿易、硫黄鉱山、十勝開発、共同運輸会社創業、東京商品取引所所長を歴任。大正元年(1912)75歳没。
「渋沢平九郎(尾高平九郎)」
渋沢栄一の養子。 …長兄尾高惇忠、渋沢喜作と共に彰義隊参加から振武軍へ、飯能戦争で黒山三滝の顔振峠で戦い自決します。平九郎22歳没
   ……先へつづく

富岡製糸場
(3) 遂に横浜原三渓の所有に
(2) 経緯と群像 三井家へ払い下げ
(1) 発足と群像