[地域][歴史] 平将門(2)−5 平将門と取手市風土記

将門の郷とされる坂東市を前回探訪いたしました。将門が天慶3年(940)2月14日藤原秀郷平貞盛連合軍を相手に合戦、流れ矢を額に受け戦死の地に在る国王神社(こくおう神社)とは…彼の三女、如蔵尼により創建され、将門を大明神として祀たものです。

Photo…坂東市国王神社
この周辺は将門が坂東を制覇し遂に新皇を名乗り政治、経済、軍備の役所を集めた統治の中枢地の石井営所の場所で島広山と呼ばれる丘陵地で、丘陵下には将門ゆかりの延命寺、石井の井跡、九重の桜など伝説遺構地があります。更に市内全域に亘り将門の遺構伝説の場所が散在します。 平将門の乱は「天慶の乱」として歴史に織り込まれてますが、何分余りにも昔の話で、唯の目印程度の遺構が大部分で土地の人々に定着した伝説のみが語り継がれ、また地域の誇りなのかも知れません。しかし国王神社の醸す雰囲気は古代への夢の架け橋か!、大事に継承して頂きたい文化財でしょう。 なお、岩井の将門遺構探索は坂東市観光協会HPをご参照ください。…http://bandokanko.jp/modules/pico/index.php?cat_id=12
では、主要な将門の郷を構成している茨城県取手市」に移動します。…江戸時代の水戸街道宿場、取手はJR常磐線の主要駅でもあり、交通も至便で落ち着きの街です。何処も同じ街道筋は道路拡幅などで昔日の情緒は失われましたが、酒蔵など老舗は多少残り、なかでも水戸街道取手宿本陣の建物が原型を保ち残されております。では、今は昔、利根川の中にあった変遷「取手宿」の面白い話から……江戸時代初期の取手宿は旧水戸街道牛頭天王社、現在の取手総鎮守八坂神社の脇の道(実在)は利根川河川敷を経て利根川を渡り対岸まで地続きで「おっぽり」と呼ばれた現在の取手市飛び地の小堀地区へ向けた街並みは”古道の佐倉みち”(千葉県佐倉市へ)だったのです。 が、寛文6年(1666)の利根川の大洪水で街が壊滅し、現在の利根川に平行する旧水戸街道筋に移転しました。 なお、今の小堀(利根川右岸東京側)を地図で見ると古利根沼に接しますが、この沼が明治以前の利根川本流の痕跡で取手の南で大きく蛇行しており、これが原因で水害をもたらし、明治末期から大正9年に改修直線化したのが現在の利根川本流なのです。
取手宿が旧水戸街道沿いに既に移転した元禄10年(1697)頃、大鹿村(現、取手競輪場付近)の人々が、新たに街道沿いに移住して、利根川の渡し場も現在の大利根橋のあたりの上流に移りほぼ旧水戸街道取手宿の街並みになったと云われます。

大鹿山長禅寺さざえ堂
さて、取手一番の歴史遺構として取手駅至近の丘の上には将門ゆかりの古刹長禅寺があり、かなり壮大な古建築さざえ堂が保存されております。また坂東の将門の郷を構成する取手近在も将門伝説遺構が多数存在しますが、何処も目印程度のもので、大鹿山長禅寺は断突な存在です。大鹿山と号する由縁は上記大鹿村の取手宿移転に併せ長禅寺も現在地に移転しますが、大鹿村時代の慶安2年(1649)三代将軍家光より寺領5石3斗の朱印状の受けております。現在の石段を上り山門を抜け更に正面に建つ三世堂と称する「さざえ堂」は宝暦13年(1763)に建立、享和元年(1801)に再建されたもので2層に見える建物の堂内は3層にわかれ、1層から坂東三十三観音札所、秩父三十四観音札所、西国三十三札所、合計百体の観音像が安置されることで百観音堂とも呼ばれます。この大鹿山長禅寺の創建者こそが、新皇平将門相馬小次郎が勅願所として承平元年(931)に大鹿村に建立したものと云われれております。

大鹿山長禅寺山門
私はお遍路さんと云えば四国の話と思っておりましたが、宝暦5年(1755)頃に開設された新四国相馬霊場全八十八番札所は大鹿山長禅寺が主導寺として境内には一番札所と結願の八十八番のお堂があります。俳人小林一茶もこの寺をよく訪ね”下総の四国廻りや閑古鳥”とお遍路の句碑が境内にあり、一茶にとっては流山の味醂醸造業秋元双樹や布川の廻船問屋古田月船、守谷の西林寺住職鶴老とも親交し北総地域は一茶にとって”第二の故郷”であり取手にもしばしば立ち寄ったのでしょう。
江戸時代から行われた、新四国相馬霊場札所廻りが身近な場所に在るとは知りませんでした。現在も札所遍路同好の人達は歩いているようです。
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平将門(5) 相馬中村藩と相馬野馬追い、足尾銅山
(4) 江戸東京の将門伝説
(3) 取手宿本陣、高瀬舟河岸(川湊)
(2) 平将門と取手市風土記
(1) ゆかりの坂東、取手と岩井探訪