[地域][歴史] 水戸天狗党 (5)−6  栃木市の痕跡 太平山 

寒さも遁れた陽春4月、新緑のお山から下界を一望しようと発念、馬齢を重ねた身体に鞭打って峻嶽踏破?…を心差し標高なんと341mのハイキングコース栃木の太平山を徘徊しました。

    

大平山信玄平の展望
6月になると賑う場所が、咲き乱れるアジサイ坂で山頂への登山道です。 太平山は昔から信仰の山であり武将武田信玄にまつわる古跡も在る歴史のお山で明治までは山上には天長4年(827)慈覚大師円仁が創建した三光神社大平山大権現社があり祭神「三光太子」の本地仏虚空蔵菩薩です。 神社の別当寺は連祥院で本地堂、釈迦堂など一連のお堂で成立つ仏教色の強い霊場だったのです。


大平神社随神門(旧連祥院仁王門)
……では、その前はどうなのか? 大平山が信仰の山”三輪山”と呼ばれた時代です。当然日本一番の古社、大和国一之宮三輪明神大神神社御神体三輪山との関連が考えられる筈です。…なぜか?、大平山の北北東(NNE)10kmの栃木市惣社町には三輪明神大神神社の分社、栃木大神神社(おおみわじんじゃ)があり”奥の細道”で芭蕉さん一行が立ち寄った「室の八島」の故事の在る神社です。御神体三輪山が大平山(三輪山)と何か関係を示しているように思へるのですが、如何でしょうか。……
古い神さまの原点…山川草木、森羅万象を畏敬し神々として崇めた日本列島に大陸から仏教が渡来しますが、その民衆の救済、慈悲、道義など格段の理性、近代性をもって各地の土俗の神様と混淆する事で日本の神様に宗教性が加味され共存、仏様とは切っても切れない関係が神社本来の姿だったのです。 しかし明治新政府廃仏毀釈政策が古来の文化を破壊し、その顕著な実例が強制された神社名や祭神の改名と為っている訳です。 なお山上を追放された元別当寺「連祥院」はアジサイ坂にある六角堂を本堂として移転しており、アジサイ坂の突き当たりに往時の連祥院仁王門がありますが、大平神社の随身門と改名して残されており、また参道の銅製の鳥居には大平山大権現の大平山の扁額、更に上の銅鳥居には三光神社の扁額が掛かっております。…

天狗党大平山屯所跡
さて、本題に入ります。…天狗党が大平山に立て籠もったのは元治元年(1864)4月14日から5月29日の45日間です。その間近郷で強要、脅迫まがいの軍資金一万数千両集めましたが、遂に水戸藩内で鎮圧の動きを察知、再び地の利、旗上げの筑波山に戻る事に決定します。…この天狗党の大平山屯所跡とされる表示板がアジサイ坂の上部、神橋や銅鳥居附近の石垣一帯に設置して在り急峻な山腹に堂屋などあったのか?、…大軍が屯す場所とは思えません、恐らく山上の寺社や今は無い宿坊を利用したのでしょう。…
……栃木にとっては天狗党は最悪の疫病神で大平山撤収の筈の放浪集団が下山、栃木宿の下町(現、室町)定願寺を総師田丸稲之衛門、総裁藤田小四郎らの本陣とし、近龍寺などに分宿、盛大に山中生活の慰労の宴を開き、町方には使役などの謝礼を気前良く支払い好機嫌で翌朝筑波山へ出立します。 但し、それまでに関東屈指の裕福な商都で厳しい軍資金強要はあったのか?、先ず無かった筈です。…筑波山上を陣屋に屯す大軍800名程を養う食料飲料水の供給運搬、生活用品、武器整備など栃木宿の全面協力を得ていたのです。冷酷にも筑波山復帰で用なしに為った栃木宿を油断させ、強力な恐怖インパクトで一気に巨額徴集を謀んだ形跡があります。
……栃木宿を阿鼻叫喚の巷にした天狗党の凶行とは……
栃木宿襲撃の伏線から、…天狗党一統は6月2日に栃木宿を出発し筑波山へ、この隊列のしんがりが田中愿蔵隊でした。見送りの町民が早くもムシロを片し始めたのに腹を立て無礼討ちに切り捨てたりします、…一統は小山を経由一万五千石の小藩結城藩の城下町結城で宿泊、早速この放浪凶徒集団は結城藩家臣の天狗党合流を要求、不同意ならば街並みに藁薪を積み城下町を焼き払うと恐喝しております。また…既に500両を徴集していた壬生藩にも再び天狗党軍監川俣茂七郎と田中愿蔵が戻りますが藩の護りが固く不発に終り、更に田中愿蔵隊は取って返して栃木宿に再び姿を見せました。
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《水戸天狗党
(6) 栃木宿 凶行の経緯
(5) 栃木市の痕跡 太平山
(4) 水戸藩2足の草鞋で悲惨へ
(3) 自滅 飛んで火にいる夏の虫
(2) 尊王水戸藩の真実
(1) 天網恢恢 田中愿蔵始末記