[人物][事件事故] 足尾銅山鉱毒事件(3)−3 政治家田中正造と鉱毒事件

既に足尾銅山は閉山されておりますが、過去を見渡しますと、この山の所有者は徳川幕府と古河鉱山会社の二つに大別されます。幕府の207年間に対し古河鉱山は96年と半分にも満たない年月だったのです。……
     
明治21年足尾銅山坑内夫。古河市兵衛専属写真師小野崎一穂氏撮影。

明治10年来、旧古河財閥の祖、古河市兵衛の努力に育てられた足尾銅山でしたが敗戦後の昭和48年(1973)に産出量の減少をもって採掘中止、閉山を古河鉱業会社は決定して、足尾銅山の歴史は閉じられました。
英国に発した産業革命以来世界の技術革新は飛躍し続け、効率量産の過程での災害や未知の障害は大規模公害を引き起こす事態になりました。足尾鉱毒事件こそは、その明確な端緒でしたが、国家により秘匿されます。 敗戦後の昭和31年(1956)熊本県水俣や昭和40年(1965)の新潟県阿賀野川水銀中毒事件は悲惨な被害者の姿をクローズアップさせ、以後企業は公害加害の莫大なコストや企業の社会基盤喪失に驚愕します。 
一方地方自治東京都知事美濃部亮吉氏の果敢な都市汚染への取り組みは社会を覚醒に導くのです。……その後、日本社会の努力は公害対策、技術で世界に認知される地位に達していたのですが。……残念、福島原発放射能災害事故の発生です。未だに手を”こまねく”政府の姿、…票にならないと読んだ政治家の放射能離れ、東電社長のどこ吹く風の物腰、……やはり現代社会でも田中正造の様な政治家が必要なのでは!。……
明治23年(1890)始めて国会が開設された日本国の衆議院第一回選挙に田中正造は50歳で当選いたします。この年の8月に渡良瀬川大洪水で流域広範囲の田畑に鉱毒水が流れ込み、農産物は悪臭を放ち枯れ果てて各地の農民や町村議会の抗議運動が活発化します。
第一次山縣内閣の農商務大臣に就任した陸奥宗光に明治24年12月18日田中正造は『足尾銅山鉱毒の儀につき質問書』を衆議院で政府に提出。以下要約。
大日本帝国憲法第27条には、日本臣民はその所有権を侵されることなしとあり、日本抗法には、試掘もしくは採鉱の事業が公益に害あるときは農商務大臣はすでに与えた許可を取消すことを得るとある。
しかるに栃木県上都賀郡足尾銅山より流出する鉱毒は、群馬、栃木両県の渡良瀬川沿岸の各郡村に年々巨万の損害をこうむらしむこと、去る明治22年より現今に至り、毒気はいよいよその度をくわえ、田畑はもちろん堤防竹樹に至るまでその害をこうむり、将来いかなる惨状を呈するに至るやも測り知らず。 政府はこれを緩慢に付し去る理由いかん。これまでの損害にたいする救済の方法はいかん。将来の損害における防止の手順いかん》

更に12月24日、この質問書へ陸奥農商務大臣の答弁のない理由を質し議会で質問。以下要約。
《日本抗法にはもちろん鉱業条例にも、いつでもその営業を農商務大臣が停止できると明記してあるにもかかわらず、それをしないというのはいかなることでありまするか。 古河市兵衛の銅山が本人にはいかに利益があるものにせよ、租税の義務を負担している人民、しかも害のない土地に住居を定めた人民にかくのごとき害を加えていることが見えないというのは、どういうことでありまするか。 
言うにはばかることであるが、農商務大臣は古河市兵衛にせがれをくれられ、親類であるから、いや、まさか農商務大臣、国家の大臣たるものが、そのようなごときことで公務を私(わたくし)するものでないことは拙者も信じておるが、しかしながら、こういうことを人民がいうときには、何をもって弁解なさるのか
》…岩波ジュニア新書 田中正造 佐江衆一著より
陸奥宗光答弁書渡良瀬川流域被害は認めても、その原因、詳細は不明としてありました。
田中正造の質問書の…将来いかなる惨状を呈するに至るやも測り知らず。…の如く度重なる洪水から被害は増大し明治30年、遂に政府は東京鉱山監督署長南挺三に命じて、足尾銅山に公害予防工事の沈殿地、堆積場、煙突脱硫装置の急遽設置を厳命します。市兵衛と既に重役となっていた養子潤吉は国立第一銀行の融資を仰ぎ、懸命に突貫工事で完成させますが、??
鉱毒予防工事の成果は?………積年の煙害による渡良瀬川上流山岳一帯は禿山と化しており、明治31年の大洪水は一挙に沈殿地、堆積場などを破壊決壊し、鉱毒は流域各地へと大拡散し惨状を招くのです。
しかし、ここに至り古河市兵衛は明確な意思表示をしました。…銅鉱山経営は時宣を得た事業と確信したのか! なんと、足尾鉱毒公害工事の政府監督官の南挺三を取り込み重役に据えます。 この時期の被害者の現実は、明治32年栃木県鉱害調査では既に鉱毒死と死産は1,064人と報告されております。
以後、足尾公害事件は核心部分に推移し、請願農民と警官隊衝突の川俣事件が発生し田中正造は憲政史上に残る大演説、”亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問”に対し山縣有朋総理大臣の答弁は「質問の趣旨その要領を得ず、よって答弁せず」…
政府の答弁は遂に得られずに国会に見切りをつけた正造は議員辞職を決断。 明治34年10月23日衆議院議員を辞任、正造の最後の手段は天皇へ決死の直訴でした。
それは国会出席帰途の馬車走行中の天皇へ決行されましたが護衛の近衛騎兵に阻止され失敗します。しかし、この騎兵は馬諸共横転して落馬、槍による刺殺は避けられます。………麹町警察署に拘引された田中正造に対する検事の取調は丁重な対応だったのです。 なぜか?一老狂人の発作的行動として事件を決着させる筋書きで即日不起訴釈放します。 巧妙にも政府は裁判法廷で一連の足尾鉱毒事件の詳細経緯が一般社会への露出を防いだのでした。《知らしむべからず、よらしむべし》が実践されます。
この直訴事件は田中正造最後の命と引き換えの行動でした。田中の依頼で直訴状を起草した万朝報記者”幸徳秋水”、毎日新聞主筆”石川半山”三者の謀議説もあります。
直訴当日の石川半山日記…開院式に列席す。田中正造石川案を行へり。幸徳秋水来て密議を凝らす。夜島田と協議す。田中放免の報来る。直ちに越中屋に於いて面会す。新聞社に至りて欄外に記す。幸徳遅く来る。呵々大笑々々。余田中に向て曰く。失敗せり 失敗せり 失敗せり 失敗せり。一太刀受けるか殺されねばものにならぬ。田中曰く、弱りました。余慰めて曰く。やらぬよりも宜しい。…
田中正造の政治家としての反鉱毒活動は終止しますが、《余は下野の百姓なり》と自負し遊水池予定地内谷中村に移住して抵抗農民と共にします。
以後国による渡良瀬遊水池計画は進捗し、谷中村民の抵抗は田中正造の死去により、遂に消滅の途をたどりました。……この間の推移…
明治34年古河市兵衛妻タメ東京神田橋より入水自殺、鉱毒事件と係わる理由かは不明。
明治36年(1903)古河市兵衛死去。養子潤吉は二代目社長に就任、西ヶ原陸奥宗光邸は古河家の所有になる。伝えられる市兵衛の個人像は、人を逸らさない穏やかな物腰は鉱夫からもオヤジさんと慕われていたようです。
明治38年(1905)足尾銅山は古河家家業から分離し、古河鉱業会社設立。
二代目社長潤吉は父陸奥宗光の秘書官”原敬”を古河鉱山副社長に任命。 
社長古河潤吉急死。
三代目社長に古河虎之助(市兵衛の実子)就任。
明治40年足尾銅山鉱夫の暴動事件発生し軍隊出動鎮圧。
明治43年大逆事件の検挙開始、幸徳秋水逮捕、翌年死刑。
明治44年鉱毒被害農民210名北海道サロマベツ原野に移住、谷中村村民137名を含む。
大正2年(1913)田中正造鉱毒河川調査から谷中村への帰途、病重篤佐野市旧吾妻村庭田清四郎宅にて没す。……おわり…  ……前へ戻る

足尾銅山鉱毒事件》
(3) 政治家田中正造と鉱毒事件
(2) 幕府公儀御用山から明治まで
(1) その経緯