[寺社][人物]  護国寺(3)−4 塋域(墓地)からの物語

この塋域(えいいき)に睡る人々から寺の事、宗教の事、その他、特に明治維新大日本帝国に至る歴史の疑義がクローズアップしてまいります。 今更ながら歴史遺構の持つ迫真力を再認識いたしました。……護国寺塋域の人々、松平不昧公、高橋義雄、大隈重信山縣有朋大倉喜八郎、益田孝、ジョサイア・コンドル三条実美など、このブログ「旧聞アトランダム」に登場して頂いた方々の話しの一端から。……
     
    護国寺本堂(観音堂
先ずは穏やかに、護国寺に係わる話しから、…松平不昧公の名は茶道を嗜む方々とはいわず、御年配には知られる松江の殿様ですが、江戸文政元年(1818)に亡くなられたお方が明治に出来た墓地になぜ居られるのか?、…実は、塋域に睡る高橋義雄(号、箒庵)という三井の番頭さん(財界人)でしたが、信徒総代の晩年に護国寺を茶道のお寺にすべく努力し、その一環に江戸時代の有名茶人「不昧公」の墓を霊域として移葬したものです。その他茶道に供する月光殿(国重文)や茶室7〜8軒、また境内の多宝塔、境内石灯籠群なども高橋箒庵の建立。…この方は三越呉服店時代は店頭の座売りや大福帳から近代百貨店経営に脱皮させた先覚者でもあります。……
次に、明治の元勲と云われた大隈重信山縣有朋です。ブログ記事で大隈は『明治新政府の近代化は幕臣小栗忠順の模倣に過ぎない』と喝破しており、日米修好条約遣米使節目付、幕府勘定奉行その他奉行歴任の老中小栗上野介忠順が指揮した先進国の経済、教育、陸海軍、横須賀製鉄所の導入、外交などを評価しております。…一方山縣は足尾銅山鉱毒事件当時の総理大臣で田中正造議員と常に対峙して、終始、銅山と国家の責任を認めず、悪質にも田中正造鉱毒被害質問演説に対し、『質問の趣旨その要領を得ず、よって答弁せず』と職責を放擲し、田中正造天皇直訴事件に追い込んだ宰相です。……
大倉喜八郎墓所
大倉喜八郎…、以前私は永井荷風さんの随筆「寺島の記」のバス路線を辿って向島を歩いた事がありますが文中の…女車掌の呼んだ”大倉別邸前”は倉庫が建並び別邸跡の記念碑だけが残っておりました。また、船橋市散策で偶然この別邸喜翁閣が移築、残されているのを発見して何はともあれ文化財の発信力には感動!、この方も江戸期天保8年のお生まれで丁稚から身を起こし戊辰戦争以来の政商で、終始、毀誉褒貶は付き物です。大倉財閥創始者護国寺塋域に徳川将軍宝塔に酷似した墓所がありました。……
益田孝…、旧幕臣、この方も財界人、三井財閥の大番頭で三井物産の創始初代社長、中外商業新聞(現、日経新聞創始者その他三井鉱山など、茶人として有名。 ブログ上での係わりは明治9年渋沢栄一が東京会議所(現、東京商工会議所)の会頭に就任、この時の副会頭が益田孝です。
先ずは東京会議所の由来とは十一代将軍徳川家斎の寛政年間に老中松平定信が町会所と籾倉の制度で民衆救済福祉に備え蓄積された共有財産が明治五年まで持ち越され、これを管理運営する団体として発足したものです。……この資金から森有礼の「アメリカ並みのビジネススクールを創設」の提案に援助出費を決めたのがきっかけで、二人は共にカレッジとしての国立大学(現、一橋大学)創設へ助力しました。 が、その過程で二人の意識の相違を反映した逸話があります。…渋沢栄一自伝録「雨夜譚(あまよがたり)」岩波文庫より
副会頭益田孝……「商人は威張ってはならぬのに、学問を尊重し高尚な学理を授けると、いたずらに気位が高くなる弊がある。 商業教育を普及させる事は結構であるが、現在以上に高尚な学問をさせることはますますこの傾向を助長するに違いない。商人に虚名などはなくともいいから、ことさらに商科大学を設ける必要はないのではないか」
会頭渋沢栄一……「実業家には見識が必要である。舜(古代中国の聖天子)も人なり吾も人なり、という考えがあってこそ実業界は発達してゆくのである。 踏みにじられても軽蔑されても利益を得さえすればいいという態度では、今後世界のひのき舞台に立って大いに競争していくようなことはできるものではない」 
……現代のエクセレントカンパニー創業社長益田孝の言としてはかなり面白いのですが、日本近代化の黎明期の話ではあります。…現在と云えども次世代の草創期であり、常に創造力と洞察力の努力は要求されているのでしょう。……次回は三条実美がらみでかなり過激になるかも?
…… 先へつづく… ……前へ戻る… 

護国寺(4) 虚飾公卿と明治維新
(3) 塋域(墓地)からの物語
(2) 墓地は明治の天皇家外史
(1) 江戸元禄の巨刹今昔