[寺社][歴史]  護国寺(1)−4 江戸元禄の巨刹今昔

池袋や目白台丘陵地の裾、音羽通りの突き当たりに東京唯一の巨刹文化財護国寺」があります。お江戸東京は徳川将軍家の城下町として名立たる大寺院は沢山ありますが、総て関東大震災東京大空襲で焼失し音羽護国寺を除き文化財に価する大建築物は存在いたしません。 さらに関東地域を見渡しても恐らくトップクラス規模の重要文化財と考えられます。 私の視点から千葉県の成田不動尊の釈迦堂、光明堂と中山法華経寺の祖師堂が共に現存し規模、古さが注目される建築物です。
護国寺観音堂→元禄10年(1697)
成田山新勝寺→釈迦堂(先代本堂)安政5年(1854)
          →光明堂(先先代本堂)元禄14年(1701)
中山法華経寺→祖師堂延宝6年(1678)

    
上) 護国寺観音堂側面 下) 境内薬師堂裏のユニーク庚申塔
             

護国寺(4) 虚飾公卿と明治維新
(3) 塋域(墓地)からの物語
(2) 墓地は明治の天皇家外史
(1) 江戸元禄の巨刹今昔


護国寺の境内は立体的に伽藍を配置して都内では珍しく、道路に面した古色蒼然たる惣門、仁王門の佇まいからも参拝に心がはやります。 緑豊かな自然環境にも恵まれゆっくりと文化財を拝観する楽しみがあるのです。 仁王門から参道を進むと両脇には水盤舎があり見上げる石段上の不老門の佇まいは樹木と朱のコントラストが大変に美しく、更に進むとブロンズの大仏像と阿修羅像に挟まれた石段上に広い前庭を配して江戸元禄建築の粋、お目当て観音堂があります。…
観音大堂宇は歴史を刻み込んだ壮麗さに迫力があり、特に裏側に廻ると往時建築様式の雰囲気が漂っており、装わない部分にこそ歴史が存在して都内の戦災後再建された大伽藍のコンクリートアクリル塗料のお堂に何か満たされないお方様には是非お参りしていただきたいものです。 
本堂裏手には明治時代に開かれた大墓地が展開しており、多彩な明治の顕官、経済人などの墓所が多く、改めて回顧できる場所でもあります。後程言及する事になるでしょう。……
上)護国寺不老門を望む  下)護国寺惣門

本堂前庭の左手には多宝塔、月光殿、薬師堂が,右側の木立に囲まれて鐘楼、大師堂があり私にとって特にユニークだったのは薬師堂裏手にある大きな庚申塔です。 その構造は全国で唯一と言われ、255年前の天明五年(1785)に音羽の人々の建立になり大変ユーモラスなもので詳しい説明板もあります。庚申信仰の一端も記されて居りますが、当時は全国に大流行し一晩中、寝ずに飲み食い唄い踊り過ごす実態は多分に娯楽息抜きが目的で庶民の知恵の信仰といわれ、各地の路傍に無数に存在する庚申塔青面金剛猿田彦の石塔がそれを物語っているようです。 
重要文化財の月光殿は三井の経済人で茶人高橋義雄(箒庵)が昭和3年に品川御殿山の原六郎邸に在った大津三井寺塔頭、日光院の客殿を移築したもので、その経緯は後程……
《境内の主な建築物の概要》
本堂   元禄十年(1697)五代将軍綱吉の建立、国重要文化財
月光殿 桃山時代の書院様式の建物、近江三井寺より移築、国重要
      文化財
仁王門 元禄十年(1697)建立。
惣門   元禄時代に将軍、桂昌院のお成りの為に建立。
薬師堂 元禄四年建立。
大師堂 元禄十四年再営。
鐘楼   江戸中期建立。
不老門  昭和十三年建立。
多宝塔  昭和十三年建立。 
……と、失礼致しました。文化財好きの私奴の悪い癖!…では、護国寺建立の経緯を人間模様から辿ってみます。 このお寺は天和元年(1681)五代将軍綱吉の建立ですが、この時期すでに徳川将軍家菩提寺の芝増上寺、上野寛永寺の超大寺院があり又、神祖家康公の日光東照宮、綱吉の実父三代将軍家光の日光大猷院廟も既に存在しております。 更になぜ護国寺なのでしょうか?……
五代将軍綱吉の生母、三代家光側室「桂昌院お玉の方」は京都二条城近くの堀川で八百屋を営む仁右衛門の次女お玉ですが父親を亡くしてから篤い観音信仰の母親に感化されます。のち、母は二条家家臣本庄宗利の後妻に入りますが、その義父の誼で二条家を介して三代将軍家光の側妾「お万の方」の侍女となり、世に云う”大奥シンデレラ物語”の開幕となります。
…八百屋のお玉ちゃんは将軍家光のお手つきで綱吉(幼名徳松)を生し側室に加えられました。…時は移り慶安四年(1651)家光が死去、綱吉の兄四代将軍徳川家綱の時代となり、お玉の方は桂昌院を称して髪をおとし幼き日々の信心を「たらちねの 願いをこめし寺なれば われも忘れじ南無薬師佛」と詠んでおります。延宝8年四代将軍家綱は急逝、世嗣が無く弟綱吉は急遽五代将軍に就任しました。
五代将軍綱吉は生母お玉の方の発願で観音信仰の祈願寺を高崎の大聖護国寺住持”亮賢”に命じ、桂昌院の念持仏「琥珀如意輪観音」を本尊とする護国寺が建立されたのです。 信仰心の篤い生母桂昌院の感化を受け将軍綱吉はやがては民衆を苦しめた”生類憐れみの令”へとエスカレートします。 護国寺建立や墓地に眠る人士の人間模様は次回へ …… 先へつづく

護国寺(4) 虚飾公卿と明治維新
(3) 塋域(墓地)からの物語
(2) 墓地は明治の天皇家外史
(1) 江戸元禄の巨刹今昔