[地域][探訪] 船橋 市川の探訪 (4)−4 船橋散策案内

船橋市は首都東京の衛星都市的なロケーションとその住宅地。 また埋立地には諸工業が立地して日本一の千葉港の一端を担っております。 古い私には現代の船橋市の実体はよく分りません。…と云う事で私のイメージ…海苔、貝など東京湾奥の最大の漁師町、江戸時代から繁栄した街道の要衝宿場が切り口の街歩きとなりました。……なお、御願い→位置確認はWeb地図で検索が最良と思いますので、よろしく。……
       
上) 大倉別邸 喜翁閣 下) 船橋漁港

JR船橋駅から南へいつも賑わう雑踏のなか前回御紹介の太宰治の文学碑と由来の夾竹桃のある市民文化ホール前広場に来ましたが、ここまで来ますと三田浜は目と鼻の先です昔新地と呼ばれていた船橋遊郭跡を抜ける事にいたします。
なにぶん船橋はその昔からの街道要衝ですから岡場所が散在していたのを昭和の初めに集約したのが新地(本町二丁目)です。市民文化ホールから更に南に二本目を右折、しばらく歩くと、それなりの地域にはストリップ若松劇場がお待ちしております。 20年前頃はこの手の劇場は大流行で各地にありましたが今では珍しい存在なのです。開演中でしたが白昼でもあり閑散で、本来ならばふらふらっと入場するところですが、私も忙しい身ですから? 鑑賞は次にして小屋の先の路地を左に入りますと、唯一軒、二階に高欄を廻らした妓楼と云うか青楼の廃屋が聳えていたのです。残念! すでに取り壊し、小さな集合住宅に変わっておりました。 往時は、この一帯が船橋新地の中心で十数軒の妓楼が軒を接していたのです。 世の中、神社仏閣ならば遺構保存となりますが、傾城、女郎屋では駄目だったのでしょうか…、その先交差する道には戦後の赤線遺構の古い建物が比較的残っております。……
至近の千葉街道の反対側一帯が三田浜でNTT船橋ビルの裏手には木造大料亭の趣きを残す割烹旅館玉川があります。戦後永井荷風さんが見た「芦萩の間に聳る楼閣」がこの玉川で附近南には船橋市役所など施設が集中しているエリアです。……
千葉街道を千葉方向に湊町3丁目交差点から更に2つ先の信号交差点を右折、附近の南一帯が湊町1丁目で戦後船橋の象徴、闇市で賑った場所です。
真っ直ぐ南へ京葉道路のガードを潜ると一瞬視界が開け、貝類採取の漁船の船溜りで船の多さに圧倒されます。 船溜りの橋から景観を楽しみながら対岸防潮堤を左に海老取川水門を渡るとララポートSCが間近です。水路に沿った防潮堤プロムナードは船橋漁港やヨットハーバーを望見出来て静かで快適、お勧めです。この防潮堤の下にお城の様な和風建築がありますが、場違いな文化財は唐突に感じました。
これは東京向島の墨提に在った明治43年建築の大倉別邸でした。大倉とは明治の成功者大倉喜八郎の事で一般的には大成建設ホテルオークラ、帝国ホテルの創始者で、戦前の向島では有名な場所だったのです。この建物は最近までは三井不動産系のホテルの敷地でしたが、そのホテルは閉館になり、侘しく佇んでおります。 向島に在ってこそ価値のある喜翁閣と称する別邸ですから、スカイツリーで一気呵成の観光地向島の更なる江戸文化財として引取る算段は出来ないものか、今がチャンスと気を揉んでおります。…この建物の先はララポートSCから京葉線南船橋駅です。……注)現、喜翁閣は解体され以後不明です。……
        

船橋漁港

戻りまして、船溜りの橋から右へゆくと防潮堤の切れ間から船橋漁港です。 船橋の漁業は巻き網船団と小型トロール船が港内に舫い、水揚げをします。 主な漁獲は江戸前の鮮度抜群のイワシ、スズキが好評です。 漁獲物により碇泊区域が分けられ、貝採取船は船溜り、海苔養殖船は海老取川岸にびっしりと舫っており江戸以来の湾内漁業は船橋では盛大に存続しています。 が、反面京葉都市圏でこれだけの漁船群が存在できる不思議、貴重な景観でもあり足を運ぶ価値があるでしょう。……
港を満喫したあとは来た道を戻ります。途中の町内は船橋本来の街ですから、開発地、造成地などと一味違い縦横に歩くと下町の面白さがあります。 千葉街道の信号機交差点を渡り東京方面へ戻り、次の信号交差点を右折北へ、この街は寺町といわれ民家と寺が混在し迷路をつくり歩くのに楽しい場所です。 この道の本町3丁目4番地、左側のお寺不動院の参道脇に小ぶりな大仏石像が鎮座しております。 
さて、この石造大仏さまが江戸以来の船橋漁民の生活史を端的に語る遺構なのです。 文政7年(1824)に現在も干潟で有名な漁場「三番瀬」の入会権を廻る浦安漁民との紛争が原因で船橋漁民数名が入牢獄死する事件があり供養の為に建立されたものです。好漁場三番瀬を廻る近隣との争いの常態化が船橋漁民の歴史でもあったのです。 一方浦安でも、天明2年(1783)船橋との争いで、直訴受牢などで漁民3名が死亡し義人として供養し訴訟勝訴の「公訴貝猟願成の塔」が浦安市猫実3−10−3花蔵院境内にあります。……
ちょっと脱線……今も昔も人の世の利権欲望は変りませんが、日本国最大の好漁場が国会の議席定数です。 日本国の莫大な税収資産の支出を自分達の一存で決める、自分達の待遇は自分達で国費を自由に配分する、身分は国権の最高機関の権力者、望めば世襲も可能で、政治は利殖のツールと化しており…結果は好漁場の資源は枯渇し国民に大借金を背負わせましたとか。……
暗い話は止めにして、日本一の将軍徳川家康公と船橋のお話に移ります。 
  
上) 不動院大仏 下) 船橋東照宮
では不動院の道を更に北へ、すぐ広く繁華な道、本町通りです。江戸以来の船橋の中心で老舗なども見かけます。…信号で横断更に狭い路地に入り直進しますと普通の商店の並ぶ道に出ました。これが権現道で江戸川”今井の渡し”(現、今井橋)から行徳を通りこの船橋に繋がっていたのです。行徳には権現道の遺構部分が残っております。  注)権現道→東照大権現(家康公)から適用。
…この権現道を右折し、左側路地の奥に鳥居が見えたら、そこが東照宮?、 なんの事やらと、云うお方様に…
                  
船橋御殿跡と東照宮徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」を建てさせた。 慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行なったが、船橋御殿の建造もその頃と推定される。 家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。 船橋御殿の面積は約404アールで、その後、この地は大神宮宮司富氏に与えられ、東照宮は富氏が建立したもの』…船橋教育委員会説明板の概要。  
船橋東照宮は日本一小さな東照宮と云われており、船橋御殿も今は昔のお話で庶民の住む街に一変しております。
また、権現道の延長が船橋御殿から東金まで御成り道として建設され、現在も各地に遺構が残るそうです。… 近在屈指の神社、船橋大神宮は本町通りを東金方面に10分足らず、海老取川を渡ると突当たりが境内です。 ……前回へ戻る

船橋 市川の探訪》
(4) 船橋散策案内
(3) 船橋という街 永井荷風、太宰治
(2) 法華経寺大荒行、本阿弥光悦、伊藤忠太
(1) 中山の巨刹 法華経寺