[歴史] 平将門(5)−5 相馬中村藩と相馬野馬追い、足尾銅山

日本歴史ページの一枚…平安時代天慶の乱」を起こして坂東の新皇を称し、関八州を支配した平将門でしたが、武運拙く敢え無く戦死いたしますが、現在に至るまで関東各地に多くの史跡伝説が残されております。前回は将門に関る成田山新勝寺のお話でした。お不動様は私の大好きなお寺さんですが、将門鎮圧護摩祈祷で朝廷により関東に御出張した不動明王さま仏像が、実は成田山の御本尊と知って将門フアンの私は戸惑っております。…昔から将門縁の地域や神社の信者さんは将門公を思いばかって成田詣では一切しないとの事です!、…しかし、この私は無信心者の立場で御座いますから、通行人が、たまたま境内にお立ち寄りした事として勝手な折り合いを付けさせて頂き、神田明神さま、成田不動尊さまにも今まで同様お詣りさせて頂く事にいたしました?、…私の無宗教の実態とは…日常外出時にお賽銭を用意し、そこにお寺や神社があればお詣りし手を合わせます、と心が洗われて安らぎを感じる不思議が在るのです。当然、お願い事など一切出来る義理ではありませんし無心の動作なのですが……


繋ぎ馬と九耀紋…平将門と相馬家共通の家紋
今回は平将門公の後裔といわれる陸奥中村藩主相馬氏と将門公の繋がりを調べてみました。……
陸奥相馬市に残る神事「相馬の野馬追い」は平安時代の武将平将門の古事とされ勇壮な神事は現代にも受け継がれ国の重要無形民俗文化財に指定されております。…
…坂東を席捲した武将平将門の戦力の要因には牧をつくり野馬を放ち軍馬として利用した疾風騎馬隊の威力があります、また直線形状の古代刀剣を改良し反りを加えて騎乗戦への適合進化を図り、日本刀の原点を考案した話もあるのです。平安期に勃興した武家階級の始祖的な存在が平将門と云えるのかもしれません。…未だ語り継がれる話として、将門は牧に放った野馬を騎馬と見立てて騎馬戦闘訓練をしたとされて”野馬追い”神事の原点と云われます。
では、陸奥相馬氏の祖先が平将門と云われる理由ですが、一連の話は平安中期の事であり可なり不明な点が多く伝説的な歴史に属するでしょう。…桓武天皇の孫と云われる高望王(たかもちおう)は平の姓を賜り従五位下平高望」上総介として坂東に下向し土着します。 長男国香(平貞盛の父)を常陸大掾。二男の良兼は下総介。 三男良将(将門の父)も下総鎮守府将軍に任命されていました。更に坂東八平氏の祖と云われる五男、平良文がおります。
一般的には中世の武家の勢力は関東は源氏、西が平家と概念いたしますが、武家勃興時の平安時代の関東は桓武平氏金城湯池だったのです。将門を討った国香の長男平貞盛が隆盛し更に子孫は西に浸出し朝廷の殿上人に納まり「平家にあらずんば人にあらず」と二足の草鞋に履き替え、平清盛公を輩出いたします。一方関東では上記、将門の叔父平良文は将門の遺児「平将国」支援しております。平良文の後裔は関東各地に割拠し坂東八平氏と云われる長尾氏、千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、梶原氏、土肥氏、大庭氏です。…また、源頼朝の旗揚げに協力し、後の幕府執権北条氏も桓武平氏の末裔です。
ここからは歴史伝承程度の話ですが相馬氏が将門後裔を名乗る核心です。……一挙に時代は下り鎌倉時代幕府執権北条義時の時代、元久2年(1205)将門の嫡子将国の子孫は常陸国信田郷(信太郡)を領し信田(篠田、信太)名を乗り、その信田師国の代に相馬郡相馬御厨(松戸、我孫子付近)を支配する「相馬師常」を養子に迎えたとされます。この相馬師常とは…同祖桓武平氏の傍流坂東八平氏の有力者千葉氏を遠祖とします。……更に時は経過し、鎌倉時代後期お定まりの相馬一族内の領有地争いが続き庶流の相馬重胤は争いを嫌い陸奥国行方郡…(行方群一帯は初代師常が源頼朝から賜わった地)…へ下り陸奥相馬氏を名乗ります。 この陸奥相馬氏は関が原の役を経て徳川幕府成立後に相馬中村藩主となり明治の御一新まで続いておりました。…
話は飛びまして……新時代を迎え渋沢栄一が国立第一銀行を創設して活躍、旧知の古河市兵衛古河鉱業創始者)は栄一の融資を得て元幕府御用山の足尾銅山など政府財産の払い下げを申請しますが、一商人の身では失敗、身分社会の時代に阻まれます。そこでお願いしたのが元相馬中村藩主の名義をお借りして払い下げに成功したのです。当初の足尾銅山共同経営者に相馬家家令の志賀直道氏(孫が志賀直哉)の名前が見えます。
相馬流れ山節  相馬流れ山 習いたかござれ 五月中の申お野馬追い………と下総流山の平将門の「野馬追い」故事を主張しております。……前へ戻る

平将門(5) 相馬中村藩と相馬野馬追い、足尾銅山
(4) 江戸東京の将門伝説
(3) 取手宿本陣、高瀬舟河岸(川湊)
(2) 平将門と取手市風土記
(1) ゆかりの坂東、取手と岩井探訪